(こもをきてたれびといますはなのはる)
訳:華やかな新春。どなたが薦をまとった乞食の姿でいらっしゃることであるか。
季語:”花の春”=新年。この場合、花=桜ではなく新年の装飾
乞食に身をやつした高僧の逸話を踏まえての作。カトリック信徒なら聖フランシスコを思い浮かべればよい。
新年と乞食の異色の取り合わせであるが”ただの乞食ではない”ところに句が成り立っている。
さらに言えば、煌びやかな服を着ている人の中にも内面には汚い心を持っているという解釈もあろうか。
この句には目出度い歳旦に乞食を詠んだことが京の他派俳人から問題視されたとあり、この句のテーマ、凡人の目に物事の本質は見えないということになるのだろうか。
相手が乞食でも”挨拶のこころ”を持っていれば新年の句になること。
乞食にもCEOにも、土地にも挨拶してみること。
はる立や新年ふるき米五升 松尾芭蕉
お米への挨拶句です。(なお新年も季語)芭蕉俳句には季語かぶりが多いがこれもひとつのトライか?
年は人にとらせていつも若夷 松尾芭蕉
若夷の像がいつも若々しいのはいつも人に年をとらせて自分は年をとらないからだ。
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ 松尾芭蕉
蛤が実と蓋に別けられる辛さ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋にも別れを告げ、二見に向け旅立つことだ。
以下はほの香の句です
年の瀬の始電に眠る遊女かな ほの香
遊女は乞食と同じ下にみられた職業で時間帯や身なりから解ります。この句は問題提起ではなく”挨拶句”です。突き放してはいない微妙な感じを解っていただければ
反物を扱うひとみ菊日和 ほの香
乞食とか遊女ではない。華やかな感じであると。
呉服店の女店員さんへの”挨拶句”です。
反という字に様々な意味がありますが”ひとみ”が吸収するように詠みました。
厨房の炒飯の音震災忌 ほの香
火と火。火とは入れていないが。
大正12年9月1日。
ただし、これも挨拶句
問題提起だと言葉も冷たくなってしまう
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する