栗城史多。
私が初めて彼を認知したのはNHKで取り上げた時だっただろうか。
NHKなどのマスメディアが時々祀り上げる「何かしらハンディキャップがありながらも凄い人」は、往々にして、その後何らかの疑惑や問題が持ち上がり、表舞台から消えていく(例えば「奇跡の詩人」、「現代のベートーヴェン」、「リケジョの星」など)ので、「ニートのアルピニスト」にもいささか胡散臭さを感じていた。
果たして、既に彼の標榜する「単独無酸素」に疑問が呈され、批判も一定程度発生している時期であり、彼のいう「夢」や「冒険の共有」を否定はしないが、そういった観念的な言葉よりも理路整然とした批判の方が私の頭には受け入れやすく、嫌悪はしないまでも、ほとんど呆れた気持ちで彼の動向を眺めていた。
今回本書を読んだのは、結局彼は何者だったのか、彼は何故あのような行動をとったのかということを知りたいと思ったからだが、本書は十分その期待に応える重厚なものだった。
彼を取材して近侍していたテレビ業界人(著者)による観察、彼の周囲にいた関係者への丹念な取材により、彼の人物像がくっきりはっきりと見えてくる。
本書から最初感じる彼のイメージは、「無責任」で「思い込みの激しい」、「独りよがり」で「巧言令色」の「エンターテイナー」だ。彼の著書、映像に出てくる言動のほとんどは脚色された演出と思ってよい。そんな彼の近くにいた人の中には彼から不義理を受け、或いは彼のフェイクに不快を感じ去っていく者もいるが、一方で彼の愛嬌と行動力によってまた新たな人脈と金脈ができてくる。
これだけ書くと彼のことを全く悪し様に書いている本のように思われそうだが、彼に悪気や悪意、人を騙そうとする心は全く感じ取れない。むしろ、マッキンリー登頂というビギナーズラックからネット時代の寵児になった若者が、エベレストを目指してから周囲の環境変化によりだんだんと追い詰められていく様が描かれており、読み進めるうちに彼のことがとても可哀想に思えてくる。
彼は何故エベレストで「無酸素単独」にこだわったのか。ノーマルルートをとらず、敢えて超難関コースを選んだのか。
それは、他の真のプロ登山家と同じように登ったのでは何の新鮮味も無く、彼の演出の中では全くつまらない無意味なものとなるからだろう。彼にとっては素人が本職よりも凄いことをやってのけることが何よりも重要だったのではないか。
しかし、彼にはそれをやってのける地力も技術も無かった。登頂を成功させるための努力もせず失敗を繰り返すうちに、人や金は集まらなくなり、イモトアヤコなどの新星が現れて、彼の姿は色褪せていく。顔つきや言動も変わってしまったという。
そんな中で「素人が本職よりも凄いことをやってのける」という演出は、一発逆転の鍵として完全に身の丈から乖離したものとなってしまったのだろう。
こうした彼の一連の言動が理解できなければまだよいのだが、このように薄々ながらも感じるところがあると、自分の中にも彼と同じ心がわずかなりともあるのではないかと不安になる。
今やSNS全盛時代。常日頃、「映え」を意識する時代だ。自分は他人と違うことをしたい、ちょっと背伸びをして褒められたいという気持ちを持つことは自然なことだが、背伸びをしていても何かあったらすぐ地に足がつくかどうかはしっかりと確認しておきたいところである。
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