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「私が初めて蔵王へ行ったのは、そこの樹氷がようやく世に聞えだした頃で、高湯温泉(引用者注:現在の蔵王温泉のこと)から上には、旧山形高校のコーボルト・ヒュッテがあるだけだった。その後、毎冬のようにスキーに出かけたが、戦後はその繁昌ぶりに怖れをなしてまだ一度も行かない。」
前回の記事をご覧になられた方の中には、この記述に違和感を抱く方もいらっしゃるのではないでしょうか? そうです、深田先生、ワサ小屋の存在に触れていないのです。その頃コーボルト・ヒュッテがあったのは片貝沼の湖畔、現在の山形大学蔵王山寮の隣接地に当たる標高1340m付近です。一方、ワサ小屋があったのは地蔵山と熊野岳の鞍部である標高1700m地点。どう考えてもワサ小屋の方が山頂に近い。深田先生ほど日本の山に明るい人が、なにゆえワサ小屋の存在を忘れた、あるいは無視したのか。その謎を解くカギが、先生が戦前に書いた「吹雪く蔵王」(単行本『わが山山』所収)というエッセイの中に隠されています。
昭和8(1933)年の年末から昭和9(1934)年の正月にかけて、深田先生は友人たちと連れだって、山スキーをするため冬の蔵王温泉を訪れました。これ以前にも宮城側の青根温泉や峩々温泉から蔵王を訪れたことがあったようですが、山形側からの入山ははじめてのことだったようです。年の瀬の12月29日夜、彼らは上野発の夜行列車に乗り込み、翌30日の朝に山形駅に到着。その後、自動車と馬ゾリを乗り継いで、その日の昼過ぎに「最上高湯」に到ります。「高見屋」という温泉旅館に投宿しています(これは現在でも蔵王で営業中の老舗旅館「深山莊 高見屋」(https://www.zao.co.jp/takamiya/ )のことでしょう)。そのまま翌日の大晦日31日から年明けの1月2日まで蔵王でスキーを楽しみ、3日に東京への帰途についています。
このうち、12月31日と1月1日はゲレンデ周辺での山スキー、今で言うところのバックカントリーを楽しみつつ、1月2日は頂上(としか書いていないですが、普通に考えたら熊野岳のことでしょう)を目指して、宿を出発しています。七曲がり坂から見晴坂の上まで登り、コーボルト・ヒュッテの脇を通過。樹氷に目を見張りながらザンゲ坂を登りつめ、三宝荒神山と地蔵山の鞍部まで到達したところで激しい寒さと降り止まぬ雪の深さに前進を断念。これまでラッセルしてきた道を温泉街に向ってすべり降りていったのでした。……そう、このとき深田先生たちは現在の蔵王ロープウェイ 地蔵山頂駅付近までしか行っていないのです。ワサ小屋があるのは地蔵山のピークを越えた先、熊野岳との鞍部です。行っていないのだから、このときはワサ小屋のことに触れていないのは自然です。ですが、仮にこのとき熊野岳山頂まで到達していたとしても、ワサ小屋についての記述はなかったかもしれません。なぜならワサ小屋は、土台の石室に小屋がけした上で、夏期のみ管理人が常駐する季節営業の小屋だったからです。今よりも雪が多かったこの時代、冬期には小屋は完全に雪の下に埋没していたのかもしれません。
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