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(※画像は『上ノ山』五万分一地形圖 日本版 Map Warper(https://mapwarper.h-gis.jp/maps/1116 )より引用)
前回の記事で、深田先生が昭和戦前期に毎年の様に冬の蔵王に山スキーに出かけていたことに触れました。深田先生は冬の蔵王しか知らなかったため、熊野岳の手前で夏の期間だけ営業していたワサ小屋の存在など知るよしもなかった。……これで話に決着がついてしまうのならメデタシメデタシなのですが、困ったこと(?)に『日本百名山』には、深田先生が夏の蔵王山を高湯温泉(現 蔵王温泉)側から歩いたことがあるとしか思えない記述が存在します。次に引用する部分です。
「大ていの人は蔵王の雪景色はよく知っていようが、夏の蔵王も楽しい山登りである。高湯から登り、熊野岳、刈田岳を経て峨々温泉に下るのがコースで、この二つの峰の間が馬ノ背と呼ばれている。高原状の広々とした尾根で、冬吹雪に会うと迷いがちなのでスキーの難所とされているが、夏は公園のようなのんびりとした遊歩場である。(後略)」
夏に山形側から歩いたことがあるのならば、やっぱりワサ小屋のあった場所を通過しているはずで、これについて触れないのは不自然じゃないかと! と考えてしまいそうになります。ですが、ここで問題となるのは深田先生が蔵王山に通っていた時期と、ワサ小屋の営業時期についての相関です。この場合の営業時期とは、1年のうち何月頃から何月頃まで開設していたのか、という月単位の話ではなく、大正時代に再興されたワサ小屋は昭和の何年頃まで営業していたのか、という年単位の話です。あらためて、(1)で紹介した山形大学のプレスリリース(注1)を確認してみましょう。そこから導き出されるワサ小屋の営業期間と、深田先生の著作から読み取れる蔵王通いの時期を並べると次のようになります。
ワサ小屋 大正中期、堀清太郎を小屋番としてワサ小屋が再興される
大正末年から昭和初期(1925〜30年頃?)頃、堀氏から伊藤老婆が小屋番を引き継ぐ。
(※伊藤氏の小屋番引退時期は不明)
戦時中(1941〜1945)の頃には小屋番が不在となり
昭和26(1951)年頃には完全に廃墟となる。
深田先生 最初に山形側から蔵王へ行ったのは昭和9(1933)年の年末
(※宮城側からは、これ以前にも訪れたことがある)
以降、毎冬のようにスキーに出かける。
(※記述からすると夏にも登ったことがある?)
戦後は『日本百名山』(1964年)刊行の年まで一度も訪れていない
略歴(注2)によると、深田先生は1944年の3月に陸軍に応召されています。よって、彼が夏の蔵王に登ることが可能だった期間は、1934年から1943年のわずか10年間に過ぎないことになります。伊藤老婆の具体的な小屋番引退の時期は不明ですが、戦時中(1941〜1945)には既に管理者不在だったとすると、1930年代の後半には既にワサ小屋は無人だった可能性が出てきます。先生が夏の蔵王にはじめて登った時には、すでにワサ小屋が営業していなかったかもしれないのです。
とはいえ、当時の山岳雑誌や山岳書には、ワサ小屋の情報は普通に掲載されていました。深田先生がその存在をまったく認識していなかったとは思えません。あるいは営業中ではなかったワサ小屋は単なる岩室のように見えて、深田先生の目には特筆すべき山小屋とは映らなかったのかも知れません。このあたりが「高湯温泉(現:蔵王温泉)から上には、旧山形高校のコーボルト・ヒュッテがあるだけだった」という一文の生んだ要因なのではないでしょうか。
(注1)https://www.yamagata-u.ac.jp/jp/information/press/20240201/01-2-2-2-2-2-21-2-2-2/
(注2)https://yamanobunkakan.com/?page_id=87
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