記録ID: 5092373
全員に公開
積雪期ピークハント/縦走
塩見・赤石・聖
日程 | 2023年01月07日(土) ~ 2023年01月09日(月) |
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メンバー | |
天候 | 3日間とも快晴 |
アクセス |
利用交通機関
山梨県道37号線(南アルプス公園線)の小之島トンネル北口(新倉断層の駐車場あり)から分岐する内河内川沿いの林道に入り,2kmほど進んだところで出てくる通行止めゲート手前のヘアピンの路肩に駐車。林道はリニア工事の関係でこの時期でも頻繁に工事車両が出入りしているため,邪魔にならないように注意。
車・バイク
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地図/標高グラフ


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コースタイム [注]
コースタイムの見方:
歩行時間
到着時刻通過点の地名出発時刻
・ 2日目は,二軒小屋から蝙蝠岳登山口まで1時間かかっていますが,携行していた地図が古かったことによるルートミス(橋が消失していた)によるもので,通常は20〜30分程度です。
・ また,2日目は16時間もかかってますが,これは蝙蝠岳周辺の稜線でぶらぶらしていたためで,単に二軒小屋〜蝙蝠岳を往復するだけなら12〜13時間ほど。ただし,ラッセル深さにより大きく変動します。
・ また,2日目は16時間もかかってますが,これは蝙蝠岳周辺の稜線でぶらぶらしていたためで,単に二軒小屋〜蝙蝠岳を往復するだけなら12〜13時間ほど。ただし,ラッセル深さにより大きく変動します。
コース状況/ 危険箇所等 | <積雪状況(あくまで今回の山行時点)> ・ 伝付峠越えの八丁峠(内河内のコル)を越えるまではほとんど積雪はなく,それ以降は伝付峠トップで50cmほど,二軒小屋で20cmほど,蝙蝠尾根の徳右衛門岳付近で50〜100cmほど。 ・ 蝙蝠尾根の2300m付近までは約1名分の古いトレースがあったためツボ足で進めたが,それ以降はトレースが消え膝以上の沈み込みとなったため,スノーシューを履いた。P2721手前で森林限界を超えてからは強風で雪が飛ばされて地面が出ている箇所が多いが,雪がある箇所は意外にクラストしておらず,沈み込みが激しかった(森林限界に出てすぐにスノーシューをデポしてしまったため,ちょっと後悔しました)。 <ルートの状況> ・ 伝付峠越えの道は,特に峠の東側の内河内川沿いの道に関しては全体的に荒廃が進んでいる印象(西側の二軒小屋側はきれいです)。特に,八丁峠(内河内のコル)を越える箇所がかなり悪く,両側が切れ落ちた急峻な尾根に獣道のような薄い踏み跡が消え入るように続き,崩壊気味のザレ場も出てきて,少しでもスリップしたらアウトな場面が連続する。マーキングやフィックスロープは頻繁にあるのだが,それでも危険なことには変わりはなく,一般登山道というよりはバリエーションルートという認識で歩いたほうが丁度良いように思う。特に,今の時期は落ち葉や積雪・凍結で大変滑りやすいので注意。 ・ 二軒小屋は今年度は営業しておらず,冬季小屋としての開放もしていない。テントも不可との張り紙があった(そのため,今回は軒先だけお借りしてゴロ寝しました。トイレは持ち帰り処分。)。水はホースから常時水が出ており,そこから汲める(めっちゃ氷が発達してますが)。なお,中央新幹線工事の関係者がこの時期でも隣接するプレハブ建物に滞在していて夜間も煌々と灯りがついており,雪深い無人境の二軒小屋を想像していた自分としては少なからず驚かされた。 ・ 蝙蝠尾根は,蝙蝠岳までであれば特に大きな危険個所はない。出だしの急登で若干ルートがわかりにくい(マーキングはあるので迷うことはないと思うが)のと,尾根の下部でちょっとだけ痩せている箇所があり凍結もしているのでスリップ注意なくらい。なお,蝙蝠岳を越えて塩見岳まで進もうとすると,北俣岳から主稜線までの間が痩せた岩稜となっており,冬季はナイフリッジとなるそうです。 ・ なお,二軒小屋から蝙蝠尾根取り付き(蝙蝠岳登山口)までの道は,古い地図やガイドブックからかなり様変わりしてしまっている。必ず最新の地図やガイドブックを参照のこと(古い地図やガイドブックには,大井川右岸の千枚岳登山口がある側に上流に向けて林道が伸びており,橋が架かっていて蝙蝠岳登山口に行けるように記載されているが,実際はこの橋は既に消失している。大井川左岸の道を行ったほうが良いです。) |
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過去天気図(気象庁) |
2023年01月の天気図 [pdf] |
装備
備考 | ・スノーシューを携行。蝙蝠尾根の2300m付近以降と,下山時の峰山尾根上部で使用。 ・アイゼンは伝付峠越えの道で凍結箇所をトラバースする際に1回使用したのみ。ピッケルは携行したが使用せず。 |
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写真
感想/記録
by hillwanderer
成人の日の三連休は,当初は白山に登るつもりだったのだが,あいにく北陸地方は3日間とも悪天候の予報。せっかくの連休を3日間ともホワイトアウトで棒に振るのは不本意なので,思い切って天気の良い南アルプスに足を延ばすことにした。
選んだルートは伝付(でんつく)越えから蝙蝠(こうもり)尾根を登り詰めての蝙蝠岳。冬季はただでさえアプローチが長く人影が絶える南アルプス中部の中でも,ひときわマイナーなこの山・このルートであれば恐らく他に入山者はいないだろうし,トレースのない長大な尾根でひたすらラッセル行を楽しめると考えた。丸一日かけて「峠越え」「前山越え」をしないと尾根取り付きにさえ辿り着けないというアプローチの長さも,まるで戦前の山旅のようでワクワクするものがあった。それから,南アルプスの主だった山やルートはほとんど登り尽くしたという山好きの親戚が,「この山だけは登り残してしまった」と語っていたのが蝙蝠尾根からの蝙蝠岳だったので,どんなルートなのか気になっていた,という個人的な思い入れもあった。
最近は風雪吹き荒れる北陸の山ばかり登っていたこともあり,信じられないような天気の良さや,真冬でもなお稜線間際まで黒々と覆い尽くしているモミやトウヒ,ツガなどの深い森林に,南アルプス独特の良さをしみじみと感じた(天気が良かったのはたまたまかもしれないが)。この時期でも伝付峠という谷沿いのルートをアプローチに利用できるのも,この山域の利点であり楽しみだろう。おかげで,これ以上にない快晴の下,蝙蝠岳まで往復して帰ってくることができた。蝙蝠尾根の途中まで一筋の古いトレースが残っていたこと(これはちょっと驚いた)を除けば,一人の登山者に会うこともなく,静かな山行を楽しむことができた。長大な雪の尾根の果てにたどり着いた蝙蝠岳は,見渡すどの主稜線からも程よく離れた孤独な高まりで,風だけが渺々と吹き渡るその山頂は,ひとりの山旅の終着点としてはふさわしい場所に思えた。
ところで,今回アプローチに利用した伝付峠も,単なる経由地ではなく,越えるのを楽しみにしていた目的地の一つだった。伝付峠は古い峠で,特に大正〜昭和初期に現在の二軒小屋の位置に東京電力や東海紙料の事務所や井川橋本屋旅館が建ってからは,新倉からの物資の輸送ルートとして人々が足繁く行き交ったらしい。冠松次郎の「渓」に収録されている「大井川の冬」という小編にも,この伝付峠が二軒小屋と外界をつなぐ冬季唯一の交通路であったこと,大雪後は二軒小屋と東電保利沢小屋(当時から既に保利沢出合に小屋があったというのが面白い)の双方からワカンを履いた雪踏み隊が出て峠の通行を確保していたこと,などの話が出てくる(昭和5年の話)。日本アルプスの標高2000mを越える峠において,厳冬期でもこのような営為が行われ,登山家でもない普通の人々が行き交っていたというのは驚くべきことのように思える。
このような由緒ある峠なので,(近年は崩壊などが進み悪路となっていると聞いてはいたが)基本的には普通に歩ける道だと思っていたのだが,実際に歩いてみると,特に八丁峠(内河内のコル)の東側の急登部分が意外に悪くて驚いた。少なくとも,古来から多くの人が歩いた道と言う割には悪すぎる気がする。崩壊気味の急峻な小尾根に無理やり急造されたような道だったため,過去にはもっと安定した道があったのだが,それが何かの理由で通れなくなり,代わりに付けられた道なのではないか,と疑ってしまったくらいだった。
そのため,大正〜昭和初期の登山案内書をいくつかと,加えて念のため昭和50年代のガイドブックも当たってみたのだが,いずれも伝付峠越えの峠道(少なくとも八丁峠の前後の区間)はほぼ現在と同じルートで付けられていた(しかも,道の悪さを示唆するような記述はいずれの資料にも全く見られなかった)。新たに分かったのは,八丁峠(内河内のコル)にはかつて大山祇神の祠が建っていたということと,現在の峰山尾根(今回,下山に使ったルート)にも保利沢山を経由して伝付峠まで道が付けられていて,伝付峠越えの代替ルートとして機能していたらしいということくらい(「日本南アルプス」平賀文男著,博文館,昭和4年刊)。
つまり,八丁峠(内河内のコル)の東側の区間も古来からの由緒正しき峠道なのだが,割と近年に崩壊が進んだことによって現在のような悪路となったのではないか,というのが一応の結論。道の素性はどうあれ,通行時はご注意ください。
最後に,「風雪のビヴァーク」で有名な登山家・松濤明の「春の遠山入り」から一節を引用して終わりにしたい。彼は昭和15年3月の11日間にわたる山行で,若干18歳にして南アルプス南部の冬季初縦走を成し遂げているが,その下山時にやはり伝付峠を越えている。
「今日はもはや伝付を越えるばかり。昼食までご馳走になって,一時頃ゆっくり二軒小屋を発った。…あの白く輝く岳の奥から鄙びた不可思議な旋律が風に乗って伝わってくる。それが無性に私を引きつける。これを見,あれを聞くとき,山へ行くのが苦しいから山に行くのではなく,また楽しいから行くのでもない,純粋に『一つのものを作り上げること』のみを目指して山へ入れるような,氷のような山男になることのいかに困難であるかをしみじみと感ずるのだ。」
私も,今回の山行で,何かしら「一つのものを作り上げること」ができただろうか。たとえそれがごくささやかで,自分の中だけのものであったとしても。伝付峠に立って,白く輝く南ア南部の山々を最後に振り返りながら,そう思った。
選んだルートは伝付(でんつく)越えから蝙蝠(こうもり)尾根を登り詰めての蝙蝠岳。冬季はただでさえアプローチが長く人影が絶える南アルプス中部の中でも,ひときわマイナーなこの山・このルートであれば恐らく他に入山者はいないだろうし,トレースのない長大な尾根でひたすらラッセル行を楽しめると考えた。丸一日かけて「峠越え」「前山越え」をしないと尾根取り付きにさえ辿り着けないというアプローチの長さも,まるで戦前の山旅のようでワクワクするものがあった。それから,南アルプスの主だった山やルートはほとんど登り尽くしたという山好きの親戚が,「この山だけは登り残してしまった」と語っていたのが蝙蝠尾根からの蝙蝠岳だったので,どんなルートなのか気になっていた,という個人的な思い入れもあった。
最近は風雪吹き荒れる北陸の山ばかり登っていたこともあり,信じられないような天気の良さや,真冬でもなお稜線間際まで黒々と覆い尽くしているモミやトウヒ,ツガなどの深い森林に,南アルプス独特の良さをしみじみと感じた(天気が良かったのはたまたまかもしれないが)。この時期でも伝付峠という谷沿いのルートをアプローチに利用できるのも,この山域の利点であり楽しみだろう。おかげで,これ以上にない快晴の下,蝙蝠岳まで往復して帰ってくることができた。蝙蝠尾根の途中まで一筋の古いトレースが残っていたこと(これはちょっと驚いた)を除けば,一人の登山者に会うこともなく,静かな山行を楽しむことができた。長大な雪の尾根の果てにたどり着いた蝙蝠岳は,見渡すどの主稜線からも程よく離れた孤独な高まりで,風だけが渺々と吹き渡るその山頂は,ひとりの山旅の終着点としてはふさわしい場所に思えた。
ところで,今回アプローチに利用した伝付峠も,単なる経由地ではなく,越えるのを楽しみにしていた目的地の一つだった。伝付峠は古い峠で,特に大正〜昭和初期に現在の二軒小屋の位置に東京電力や東海紙料の事務所や井川橋本屋旅館が建ってからは,新倉からの物資の輸送ルートとして人々が足繁く行き交ったらしい。冠松次郎の「渓」に収録されている「大井川の冬」という小編にも,この伝付峠が二軒小屋と外界をつなぐ冬季唯一の交通路であったこと,大雪後は二軒小屋と東電保利沢小屋(当時から既に保利沢出合に小屋があったというのが面白い)の双方からワカンを履いた雪踏み隊が出て峠の通行を確保していたこと,などの話が出てくる(昭和5年の話)。日本アルプスの標高2000mを越える峠において,厳冬期でもこのような営為が行われ,登山家でもない普通の人々が行き交っていたというのは驚くべきことのように思える。
このような由緒ある峠なので,(近年は崩壊などが進み悪路となっていると聞いてはいたが)基本的には普通に歩ける道だと思っていたのだが,実際に歩いてみると,特に八丁峠(内河内のコル)の東側の急登部分が意外に悪くて驚いた。少なくとも,古来から多くの人が歩いた道と言う割には悪すぎる気がする。崩壊気味の急峻な小尾根に無理やり急造されたような道だったため,過去にはもっと安定した道があったのだが,それが何かの理由で通れなくなり,代わりに付けられた道なのではないか,と疑ってしまったくらいだった。
そのため,大正〜昭和初期の登山案内書をいくつかと,加えて念のため昭和50年代のガイドブックも当たってみたのだが,いずれも伝付峠越えの峠道(少なくとも八丁峠の前後の区間)はほぼ現在と同じルートで付けられていた(しかも,道の悪さを示唆するような記述はいずれの資料にも全く見られなかった)。新たに分かったのは,八丁峠(内河内のコル)にはかつて大山祇神の祠が建っていたということと,現在の峰山尾根(今回,下山に使ったルート)にも保利沢山を経由して伝付峠まで道が付けられていて,伝付峠越えの代替ルートとして機能していたらしいということくらい(「日本南アルプス」平賀文男著,博文館,昭和4年刊)。
つまり,八丁峠(内河内のコル)の東側の区間も古来からの由緒正しき峠道なのだが,割と近年に崩壊が進んだことによって現在のような悪路となったのではないか,というのが一応の結論。道の素性はどうあれ,通行時はご注意ください。
最後に,「風雪のビヴァーク」で有名な登山家・松濤明の「春の遠山入り」から一節を引用して終わりにしたい。彼は昭和15年3月の11日間にわたる山行で,若干18歳にして南アルプス南部の冬季初縦走を成し遂げているが,その下山時にやはり伝付峠を越えている。
「今日はもはや伝付を越えるばかり。昼食までご馳走になって,一時頃ゆっくり二軒小屋を発った。…あの白く輝く岳の奥から鄙びた不可思議な旋律が風に乗って伝わってくる。それが無性に私を引きつける。これを見,あれを聞くとき,山へ行くのが苦しいから山に行くのではなく,また楽しいから行くのでもない,純粋に『一つのものを作り上げること』のみを目指して山へ入れるような,氷のような山男になることのいかに困難であるかをしみじみと感ずるのだ。」
私も,今回の山行で,何かしら「一つのものを作り上げること」ができただろうか。たとえそれがごくささやかで,自分の中だけのものであったとしても。伝付峠に立って,白く輝く南ア南部の山々を最後に振り返りながら,そう思った。
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