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松濤氏は1922年3月生まれで、学徒出陣も経験された世代。1949年1月に北鎌で同行の有元氏とともに遭難死しましたが、遺品の手帳などによって最期の様子が克明に伝えられ、伝説の人となった方です。井上靖氏の小説「氷壁」のモデルでもあるようです。北穂高岳には「松濤岩」があります。
山登りに関してはかなり早熟だったようで、満15歳ですでに白馬〜槍の縦走や、一ノ倉沢を含む谷川岳の登攀の実績があります。
この本(新編)は、最後となった冬季北鎌尾根登高(タイトルの「風雪のビヴァーク」はこれ)の記録関係だけでなく、1938年からの記録(所属していた登歩渓流会の会報報告)や会報への寄稿も収められていて、同氏のことをこの一冊でほぼつかむことができるような構成になっています。
松濤明氏と奥山章氏(同じくyama-kei classicsに「ザイルを結ぶとき」が収録、2011年1月18日に読了)とが「芳田美枝子」さんを通じて接点があったのをこの本ではじめて知りました。
物資(装備・食料)や交通機関の状況など、当時のハンディキャップを考えるにつけ、山への熱い想いをひしひしと感じることができました。(北岳バットレスに行くのに、韮崎から地蔵岳を越えて広河原に入るのですから・・・)
後、加藤文太郎著“新編単独行”も読みましたが意外にも?当然今ほどではないですが交通の便がよかったり山小屋の便がよかったりして驚きでした!特に冬の山小屋の解放ぶりには驚きです!当時はゴアテックスも軽量テントもなくウルトラライトとは縁遠い重装備での山行には凄過るの一言ですね!!登山の歴史を知るいい資料でした!
teteteさん、コメントありがとうございました。
> 当然今ほどではないですが交通の便がよかったり山小屋の便がよかったりして驚きでした!
確かに公共交通機関は、山ヤからみると今よりも便利だったと思うことがしばしばです。なんたって夜行列車が常設されていましたし、それに路線バスのネットワークがしっかりしていたようです。
マイカーで往復登山するなら現在の方が便利ですが、縦走して国境(県境)を越えて反対側に出るような山行でしたら、昔の方が良かったかも知れませんね。
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