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昭和20年6月22日は呉海軍工廠に大規模空爆があり中四国から集められた学徒勤労動員、女子挺身隊の476名が犠牲になりました。
その中に17歳の叔父もいました。
違う学校から動員された父は難を逃れた為、私がこの日記を書けています。
終戦間際の空襲では情報は全て把握され戦後の接収の為造船部は爆撃せずその他の工場をピンポイントで狙ったようです。
1トン爆弾の威力は凄まじく防空壕に入った人の多くが亡くなったようです。
呉市警固屋の鍋山公園に殉国の塔があります。
この存在を知ったのは大和ミュージアムの展示からで一昨年始めて慰霊祭に参列しました。
慰霊碑の名簿には叔父の名が無かったので加えて頂こうとお世話されている方を探しましたが、死亡や高齢で先に進む事が出来ませんでしたが、地区の自治会長さんがお世話取りして頂き、今年名簿に加えて頂く事が出来ました。
戦後76年確実に戦争体験者は少なくなって行きます。
知らない世代が受け継ぐ事が急務だと切実に感じます。
日本海の海辺で育ったからかも知れませんが、穏やかな瀬戸内の海も好きです。
写真は休山(やすみやま)から見た工廠跡地の日本製鐵とカラス小島です。
叔父もこの海を毎日眺めて仕事していたんでしょうね
挺身隊の中に可愛い子いたのかな?
恋をする余裕が少しでもあったら良いな
などと思いながら呉の山や街を歩くと思います。
私は戦後随分経ってから生まれましたが、傷病兵さんが軍服で毎週街中でお金を乞う姿は今でも忘れられません
○○○男を引っ叩きたい、という台詞が流行ったこともありましたがやはり戦争は失うものの方が多いと思います
私も子供の頃、お宮の祭礼で亡霊のように傷痍軍人を見た事があります。
松葉杖担いでベンツで帰って行くなんて話も聞いた事もあります。
この空襲で亡くなった方はまだ半分位しか名前が判明しておりません。
少しでもお手伝い出来ないかと思っております。
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