生産していたのは、三菱重工業水島航空機製作所
三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産し総生産数の6割以上は中島製である。
生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上である。
本題。
太平洋戦争末期、倉敷市水島地区の亀島山に建設された地下工場を将来にわたって残し、活用するため、地元3団体が中心になって「亀島山地下工場を保存する会」を設立されました。
亀島山地下工場とは、三菱重工業水島航空機製作所が空襲から逃れるため分散疎開させた工場の一つです。
地下に掘られた全長2000mの横穴は、県内最大の戦争遺跡で、国史跡級の評価をする専門家もいるそうです。1988年から「亀島山地下工場を語りつぐ会」が、平和学習の教材として残そうと活動を展開していましたが、倉敷市は難色を示していました。
そこで、水島地区のまちづくりにかかわる「水島の未来を考える会」「水島を元気にする会」の2団体が加わり、まちづくりの観点も盛り込んで「保存する会」を発足させました。
地元関係者など80人が出席し設立総会では、会長に、水島の未来を考える会の前の会長・平松亀次さんなどを選ぶ役員人事を承認しました。
今後は、土地所有者との交渉や、まちづくりへの活用方法を検討しながら、保存活用に向けた署名活動、安全対策など課題の調整を行います。
また、パンフレットやビデオを作成したり、現地に説明板を設置するなどして、地下工場の存在をPRしていく考えです。
零式艦上戦闘機とは。
当時の日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(略称・皇紀)2600年にあたり、その下2桁の「00」から「零式」とされた。
「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。
このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」と言われることがあるが、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「ぜろせん」が誤りという訳ではない。
当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていた(○○式○号艦上戦闘機○型)が、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定を追加。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。
ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームが付けられた。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する