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興味は、以下の2点である。
1。場所が大宮氷川神社・奥氷川神社(奥多摩駅近く)の中間に位置している氷川信仰(ひかわしんこう:スサノオに対する神道の信仰)の神社であること
2。昭和20年(1945年)11月25日に連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局初代局長:ケン・R・ダイク准将が当社の祭礼を視察していることである。
特に後者については最近2021年初旬たまたま知ったところだった。以下のように祭礼視察の直後1945年12月15日にGHQが「神道指令」を発していることを考慮すると、宗教施設としての神社の位置づけに、この視察は大きな貢献があったのであろう。
以前以下を読み、エピローグ(尋問官長ウッダードと靖国神社:第一節/過去を消した情報将校・第二節/靖国神社の存続は誰が決めたのか)で記載されていた敗戦後の神社の位置づけに興味を持っていた。
トレイシー・日本兵捕虜秘密尋問所:中田整一・2012年
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000206021
具体的には以下のように記載されている。
「トレイシー」の尋問官長ウィリアム・ウッダード大尉は少佐に昇進し、合衆国戦略爆撃調査団の一員として1945年9月に日本に派遣される。
GHQは1945年12月15日に「神道指令」を発し、国家神道の禁止と政教分離の徹底的な実施を日本政府に命じた。
翌1946年5月に彼は再び宗教課の特別プロジェクト責任者として来日、靖国神社や護国神社や招魂社などが、宗教の軒を借りた軍国主義・超国家主義の運動ではないかとの調査を行った。
宗教施設であれば「信教の自由」の原則から解散させることは容易ではないこともあり、靖国神社も軍国主義の時代とつながる祭祀を止め新しい時代にふさわしい祭祀を立ち上げるなどの努力をしていた。
ウッダードは占領初期であれば軍国的神社は全面的廃止が望ましかったが、1947年1月には廃止して得るものは少なく混乱の方が大きいと存続を主張した。そのための条件として明治2年設立当初の「東京招魂社」に戻すべきであり敷地も縮小する案を提出した。
また以下などで靖国神社を歴史を知った。
靖国神社の緑の隊長:半藤一利・2020年
https://books.rakuten.co.jp/rb/16359824/
すなわち
明治2年「東京招魂社」:故郷に帰れない多くの脱藩した「勤王の志士」を含め戊辰戦争で亡くなった霊を慰める。
明治12年「靖国神社」:「天皇の軍隊の戦死者を祀る」。なお戊辰戦争で負けた徳川方に就いた人々・空襲や原爆によって犠牲になった一般の国民は祀られていない。戦後、戦争には負けたけれども我々は忘れていないと語りかける聖地として、兵士(軍属を含めて)の死者240万人の遺骨はなくとも名前だけは記して「英霊」として靖国神社に祀ってきた。昭和53(1978)年連合軍裁判で刑期中に病死したA級戦犯も含めた合祀を行った。
「祭神」は幕末の1853年以降、太平洋戦争までの国内外の戦いで犠牲になった約246万柱。「しおり」では「軍人ばかりでなく」とし、坂本龍馬や吉田松陰、従軍看護婦、学徒動員の学生など、軍属や民間人も祭ると列挙している。
中氷川神社にGHQが訪れていた経過などは以下に記載されていた。一部文章を抜粋・引用する。
「埼玉県神社庁設立までの彷徨 埼玉県における終戦直後の神社」庁報編集室:埼玉県神社庁報 No215 (平成28年1月31日)
https://www.saitama-jinjacho.or.jp/wp/wp-content/uploads/2016/02/jincho_215_12p_201601.pdf
昭和二十年八月十四日、日本は連合国が発した日本への降伏要求の最終宣言、いわゆるポツダム宣言を受諾した。この宣言では「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」と国家神道を軍国主義および超国家主義を煽動する宗教として捉えていたことを示唆する。
連合国側では当初、国家神道の廃止を念頭に占領政策を考えていたが、欧米諸国ではさらに神社を潰せという世論が渦巻いていた。昭和二十年九月二十二日に連合国軍最高司令官の専門参謀部局の一つである民間情報教育局が設置され、十月十三日局長ダイク代将・宗教課課長バンス大尉が神道を国家から分離する指令としての「神道指令」の上申責任者と起草者となった。 起草に当たっては、ダイク代将は、宮中の新嘗祭・伊勢神宮の見学を希望していたが実現せず、結果的にダイク代将等の神社見学は、十一月二十日の靖國神社「臨時大招魂祭」の祭典参列と十一月二十五日の山口村(所沢市山口)の中氷川神社における「新嘗祭」祭典参列の二箇所にとどまることとなり、この二つの祭りの参観によって、神社というものに対する予想外の理解と好感とをもったことは神社界にとって、まことに不幸中の幸いともいうべきことであった。
さらに中氷川神社の見学については、案内した東京大学助教授・岸本英夫(通訳もできる日本人研究者として同行)の意見として以下が紹介されている。「その靖国神社の祭典から間もないころであった。埼玉県所沢町に近い山口村の鎮守の祭りに、ダイク代将を案内したことも印象に残っている。これはダイク代将が、『どこか民間の神社の祭りを見たい』という希望を出したからであった。その神社は中氷川神社といい、後になってきくと、その日にわざわざ臨時の祭礼を催したのだそうである。しかし、そうとは私はつゆ知らなかった。その祭礼の日は十一月二十五日。さわやかな秋晴れの朝であった。ダイク代将と、バンス博士、ストッブ大尉とジープに同乗して、秋の武蔵野を快く走った。神社に到着すると、村びとたちが大ぜい集まって、われわれを待っていた。祭礼は、いかにものどかな村祭りであった。ことに奉納の浦安の舞は、笙、シチリキの雅楽も加わって、興をそえた。このような土地に、こんなりっぱな舞いがあるのかと感心したが、後年になってそれは宮中の雅楽部の人々が、秘かに馳せ参じたものと知った。 ダイク代将は興味深げにその雰囲気にひたっていたが、やがて直会になり、酒も出た。酒を注ぐ宮司の娘さんの和服姿も、ひなびてあでやかであった」。
また中氷川神社宮司は以下のような経過を記憶していたそうである。当時民間情報教育局と対応していた東京帝国大学・宮地直一博士のお話しは、おおむね次の通りであった。「進駐軍の神社に対する悪感情は想像以上で、一昨日も総司令部の人たちを靖国神社の臨時大祭に案内したが、非常に機嫌が悪く、式典も終りきらぬうちに席を立って、直会場へ入ってしまうと言ったあんばいだった。その時の態度から、神社の上に何事もなければよいがと案じているのだが、咋日はまた電話で、『民社の祭りを見せるように。日は十一月二十五日。場所は司令部からジープで一時間以内』と言う命令が伝えられて来た。そこでどこがよいかと協議した結果、こちらに白羽の矢が立ったわけだが、その見学によって、あの連中が悪い印象を受けるようなことがあると、全神社の浮沈にもかかわると思う。どうかそういう事情を汲んで、是非とも大役を引き受けてほしい」。これでは、私として軽々しく引き受けられるものではなかった。万一のことがあれば、自分の身はどうあれ、その累は全神社に及ぶのだ。私は極力辞退した。しかし、東京大学・宮地博士もねばり強かった。しかも当時はお社が県社だったから、こうしたことには、あらかじめ県の許可が必要だったが、すでにその諒解もとりつけて来て居られる手廻しのよさであった。祭りに加わる以上は、神道の作法に従ってほしいと私は念じていた。そしてダイク代将たちがそのようにしてくれるように仕向けたのだったが、意外にも彼らは一々作法通りに振舞ってくれた。それは、神社に仕える者にとっては、まことに嬉しいことだった。礼をすべきときには、皆と一緒にしていたし、宮地博士は「彼らは絶対に玉串をあげない」と言っておられたが、玉串を持って行かせたら、礼儀正しく拝礼して奉奠してくれたのである。その祭典・祭礼の当日は、素晴らしい秋晴れだった。「婦人たちに出迎えをさせよう」と私はその前日に思いつき、各部落に連絡はして置いたものの、進駐軍がひどくこわがられていたそのころのことである。はたしてどの位集まるだろうかと心配していた。だが、こわいもの見たさが手伝ったものだろうか。朝の八時ごろには続々と人が集まって、長い参道に、二列、三列に並ぶ盛況になったのは、幸先きよく思われた。午前九時四十五分、ダイク代将、バンス、ストッブ両大尉の一行が、ジープで到着した。出迎えの町長らが田舎流の丁寧なお辞儀をすると、一行も機嫌よく日本式の礼を返していた。参道に並ぶ婦人達の歓迎にも、気さくに答礼していたが、そんな態度からは、宮地先生の話された靖国神社における不機嫌さは、みじんも感じられなかった。祭典がはじまった。宮地博士から「靖国神社の例もあることだから、直会はいつでも始められるようにして置いた方がよい」と注意されていたので、心きく総代を三人直会係にまわし、万端の準備をととのえさせてはあったものの、彼らが何時席を立つかと、気が気ではなかった。ところが、ダイク代将たちは、最後まで席を立たなかった。案内役の岸本英夫博士の説明に耳を傾けながら、写真をとりまくっていた。浦安の舞にはとくに興味をひかれたらしい。また拝殿に子供づれの母親たちを入らせて置いたが、お祭りの最中に幼児たちがヨチヨチ歩きまわる光景も、彼らを喜ばせたように見受けられた。直会の時もそうだったが、ことにお祭り中は、司令部の人と一行が帰ったあとで、氏子たちは「アメリカ人だって、我々と大して違わない人間じゃないか」と口々に言っていた。しかもその氏子たちは前日まで、「進駐軍は何しにくるのだ。お宮をこわせと言ったって、こわさせないぞ」などと、殺気立ったことを言って居たのである」。また準備に当たっては以下の背景もあったようだ。当時、宮内省雅楽部長の多忠朝先生が御家族と共に社務所に疎開して来ておられ、氏子の少女に浦安の舞を教えておられたことも好都合だった。多先生は、祭典の当日はその少女たちに浦安の舞を舞わせようと言われ、ただちに練習をはじめられた。また当日は宮内省の楽人を五人応援に呼ぼう、そして先生自身は琴をひこう。舞姫の装束は、先生ご自慢の立派なものを貸そう、と言って下さったのは有難かった。こうして準備をすすめながら、私は伊勢の大神をはじめ、八百万の神々に心からなる祈りをこめて、緊張のうちに当日を迎えた。
以上
神社は地域の祭礼を司るなどいろいろな役割を有していたことが訪れるたびに実感することが多い。今回中氷川神社を訪れて地域の中にひっそりと息づいている風景を感じる一方、このような歴史上の経験があったなどの事実は忘れられてしまうのではないかとも心配した。氏子などと共に支えられている神社の風景は山行時などによく見かけるところだった。たまたまGHQが訪れるにあたって氏子と共に豊かな時間を楽しめたことはある意味僥倖かもしれないがその素地はあったのであろう。いままで知らなかったことなので整理しておきました。
帰路、付近の所沢市・山口地区の曹洞宗の瑞岩寺というお寺を確認した。ここでは毎年10月の第2土曜日に「岩崎簓(ささら)獅子舞」が奉納されているそうだ。獅子舞の奉納など神社を思い出させるが氏子の考え方もあろう、機会があれば訪れたい。
平成25年奉納:岩崎簓獅子舞(所沢市指定文化財)
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/tokotokodoga/YouTube/eventdouga/kouhou_20140410162602671.html
写真:中氷川神社・本殿の向けての正面階段
写真:中氷川神社本殿
写真:瑞岩寺・付近の曹洞宗のお寺(訪れた時拝殿の前でずっと祈っている方がおられたので邪魔にならないように)
以下に簡単な動画紹介があった。コメントに初めて知ったとの感想があり一般情報として有効であろうと感じた。
https://youtu.be/ZI81cOw59xU?si=qo5-X4BOIcnq-57U
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