これまで、私は、裏那須の山名問題ついて、新旧2枚の地図と裏那須の3枚の写真を踏まえて、コメントしました。その中で、旧地図から書き換えられた新地図の表記は「誤記」などの「事務的ミス」ではない?と問題提起させていただきました。
今回から、資料等に基づき掘り下げたいと思います。
2 「三倉山」と「大倉山」を巡る2つの主張の存在
⑴ 「三斗小屋温泉誌」の記載
下山後に「三斗小屋温泉誌」(1989年)を入手しました。三斗小屋温泉は、ご存知のとおり、那須に位置するが、江戸中期には会津中街道における那須と会津の交通の要衝でした。また、廃れてしまった白湯山信仰の要衝であり、過去から現在にかけて那須登山の拠点となっています。そして、同温泉誌を見ると、旧地図による山名が昭和35年修正発行の地形図から山名が入れ替わって記載されてしまったことが記載されています。そして、三斗小屋温泉では従前から旧地図の地形図の山名により呼称してきた旨の記載があります。確かに、同温泉誌の中の裏那須の山名記載は、旧地図上の表記で首尾一貫しているといえます。
因みに、大倉山の読み方についても、「おおくらやま」ではなく「たいくらやま」とする旨の記載があります。同温泉誌によると、この読み方についても、三斗小屋温泉や南会津での従来からの読み方に従うとのことです。
この文章を素直に読むと、南会津や三斗小屋温泉では、旧地図による山名記載こそが本来の読み方であり、昭和35年の地図の修正によって、地図の表記が何らかの理由により書き換えられてしまったことがわかります。ただ、書き換えられた経緯については、何一つ記載がないため、新地図への山名記載が「誤記」や「事務的ミス」であったかは判然としません。ただ、現地である三斗小屋温泉では、従前(といっても、「いつから?」かは判然としない)から旧地図による山名呼称を用いていたことは間違いないようです。
⑵ 分県別登山ガイド「福島県の山」の記載
これと前後して、私は分県別登山ガイド「福島県の山」(旧版、新版いずれも)を確認しました。このガイド本にも、山名問題に関する記載がありました。すなわち、国土地理院の地図では、昭和35年以前は、三倉山と大倉山の位置関係は逆で、これは、下郷町と那須塩原市の主張の違いによること、そして、現在の地図の山名は下郷町の主張によるものと記載されています。なお、このガイド本の旧版(2010年版)には、三倉山の三角点峰が三ノ倉(1854)、本峰が二ノ倉(1888)、北西峰が一ノ倉(1860)なので三峰合せて三倉山とする解釈が最も妥当だろう、という新地図による三倉山に対する評価まで記してありました。
また、同ガイドによると、大倉山の読みについては、下郷町では「オオクラヤマ」、那須塩原市では「タイクラヤマ」と呼んでいるそうで、大倉山の読み方についても、会津側と那須側で主張が異なっているとのことです。
要するに、裏那須の問題となる山について、どちらが三倉か大倉かについて、あるいは、大倉山の読み方について、下郷町(要するに会津側)と那須塩原市(要するに下野側)の双方からの主張があるというのです。
3 現地の山名方位盤に現われる2つの主張
⑴ 2つの山名方位盤
ここで2枚の写真をご紹介します。2枚とも那須連峰を歩くとお目にかかることができます。1枚目は、隠居倉ピーク(栃木県)にある山名方位盤、2枚目は三本槍岳ピークにある山名方位盤です。
これらの山名方位盤を見比べると、隠居倉にある方位盤は、旧地図による表記(「三倉山1831m」、「大倉山1854m」、※旧地図の「三倉山」はかつては1827mとされていたが、後の測量で1831mに修正されている)となっており、県境にある三本槍岳にある方位盤には、新地図による山名表記がなされています。
注意深くこの山名方位盤を見ると、それぞれの「三倉山」「大倉山」が別の山を指していることがわかり、山座同定に詳しい方が、歴史を知らずに、これらの山名方位盤を見ると混乱することになります。
⑵ では、この違いはなぜあるのか?
その理由は、上記2つの主張の存在と方位盤を建立した主催者を確認すると理解できます。
すなわち、隠居倉は栃木県(下野側)にあり、方位盤には「環境庁・栃木県」と書かれています。要するに、この方位盤の設置者からすると、下野側の主張が反映したものとみることができます。そして、隠居倉の直近直下に、ちょうど三斗小屋温泉があることも旧地図による方位記載があることと無縁でないと思ってます。また、この方位盤には標高まで書かれており、その主張の強さを物語ることができます。
一方、三本槍岳の山頂は、栃木県と福島県の県境にありますが、現地へ行くとわかりますが、方位盤には「福島県西郷村」や「白河連峰会」の名が記されています。要するにここにある方位盤は、会津側が設置したものであり、方位盤に記載された山名も会津側の主張を反映したことが理解できるのではなでいしょうか。
⑶ さらに、栃木県と福島県の県境に沿って、大峠から裏那須の稜線へ入っていきながら、新地図による「大倉山」へ入っていくと、下郷町やその山岳関係者が設置した「大倉山」の山名標柱があります。この大倉山に関しては、分県別登山ガイド「福島県の山」に興味深い記述があります。「那須塩原市では、ここを三倉山と主張し、下郷町では大倉山と主張しているピークだが、下郷町が立てた標柱に押し切られた感がある。」と。分県別登山ガイドの執筆者は、この会津側と下野側の主張の歴史をかなり詳細に理解していることが窺われます。
前回挙げた新地図の三倉山の立派な山頂標柱の写真も含め、現在の裏那須の稜線上は、新地図に基づく山名表記となっており、会津側の主張が反映されているとみることができます。
4 小括
このように、出版された資料や現地へ赴くと、裏那須の山名を巡って、下野側と会津側の2つの主張が存在し、事実上、新地図に基づく会津側の主張が「優勢な」状況となっていることが理解できます。
※三倉山と大倉山については、それぞれ3つのピークがある関係でそのいずれを標高とするかについても主張があるようです。
三倉山(旧地図の大倉山):北から1860m,1888m,1854m(三角点「大倉山」)
大倉山(旧地図の三倉山):西から1885m,1831m,1792m
『余話・御用邸まで巻き込んだ山名問題 in日本山岳会日本列島中央分水嶺踏破報告書2007_01』で案内されている『「山と渓谷」昭和 41 年4 月号 No.328「陛下が御指摘になった地図のミス」小俣幸太郎』1966、に詳しい変更経緯があります。
前者は公開ですが、後者は国会図書館から入手できるレベルです…。
下山後に「三斗小屋温泉誌」(1989年)を入手されたのは羨ましいです。
すでに入手済みで、次々回で取り上げる予定です。
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