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2016年03月11日 06:48新編相模国風土記稿全体に公開

新編相模国風土記稿 煤ヶ谷村[その1]

新編相模国風土記稿. 第3輯
巻之五十八 村里部 愛甲郡巻之五
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763969
コマ番号392
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煤ヶ谷村(須々賀也牟良[すすがやむら])[その1]
江戸より16里余、小谷入郷と唱う(村内谿谷多きゆえこの唱起こりしという)。天正の制札にも見えたり(村民所蔵、豊太閤の制札に、大中郡スヽガヤ小屋の郷23所と記せり。23所は何れの地を指するにや、今詳らかならず)。また村名をススガキと記せり(大住郡日向薬師別当実城坊所蔵、天正18[1590]年豊太閤の制札に載せし地名三所の中に、スヽガキコヤと記し。また村民所蔵の文書にも見えたり。その文下に出す)。東西2里余。南北1里半余(東、上古沢、飯山、2村。西、丹沢山。南、七沢村。北、上荻、田代、半原、宮ヶ瀬、4村)。戸数283。北条氏分国の頃は板倉修理亮(役帳曰く、板倉修理亮十五貫文。中郡煤ヶ谷領家方下古沢共、大普請時半役63貫380文。同所癸卯検地増分。この役重而揔検地上改可(レ)被(二)仰付(一)以上。78貫380文)、井上加賀守(65貫750文。煤ヶ谷井上加賀守地所方吉沢とも。この内47貫750文。癸卯検地増分)、同雅楽助(12貫750文。煤ヶ谷地頭方井上雅楽助。この内9貫750文。癸卯検地増分)等知行す。その頃村民炭を焼きて毎年12月小田原に貢せし事、元亀2[1571]年12月(略)、天正元[1573]年12月(略)、5年12月(略)、13年12月(略)の文書に見えたり。今も土人農隙にこれを焼き活計となせり。白炭と呼り。またこの地良材に富めるをもって小田原に運いたせし事、天正7年5月(略)、16年7月(略)の文書に所見あり。慶安4[1651]年9月村民ら、由井正雪、丸橋忠弥らが余類を搦捕し(渥美次郎右衛門、芝原亦左衛門、同七郎兵衛および僕従甚三郎、7月29日夜、丹沢山御林見守道より来たり。村民の家に宿せしを、御代官坪井次右衛門に注進し、8月朔日搦捕しとなり[捕まった4人の墓碑が村内正住寺にあり])、賞として米300俵を賜い、かつ鉄砲42挺を許可せられ、山林に猟する事を余業とす。今御料及小濱左衛門  。知行せり(闔村古より御料なりしを、文化9[1812]年小濱氏に裂賜う)。検地は天文12年改(北条役帳)の後、寛文5[1665]年坪井次右衛門良充改む。その後墾闢の地あり。延宝2[1674]年坪井良充、8年坪井牛之助  。明和3[1766]年江川太郎左衛門英征等検す。当村は丹沢山御林の警衛を承わるをもって、人馬の課役を除かれ、かつ月俸を賜う(当村および宮ヶ瀬、大住郡寺山、横野等の4村組合てこれを勤む。月俸は合て一口半なり)。秣場6所あり。甲州道係る(幅一丈余)。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
(この項続く)


煤ヶ谷村です。
昔はススガキといっていたという形跡があるようです。
ススガキ? 煤垣? 煤ヶ木? それと、もうひとつの呼び名である小谷入郷が合体して、煤ヶ谷になったんでしょうか?
炭焼きと林業が昔から盛んだったようですね。

慶安4年、ほんの少しだけど、煤ヶ谷の名前が歴史に登場する出来事が起こります。
権力の強かった徳川家光が死んで幼い息子がその後を継ぐと、その機会をとらえて反乱がくわだてられました。由井正雪の乱(慶安の乱)です。当時は幕府に不満をもつ浪人が多かったようで、それらをまとめて天皇を擁し幕府を転覆せんという計画でしたが、あえなく失敗に終わります(天皇という存在は、昔からある種逃げ場のない人々にとっての希望の光となることが多いですね。じゃあぼくは、奏さまに一票!(^^;)。慶安4年7月23日には首謀者のひとり、丸橋忠弥が江戸で捕まり、26日朝には駿府で由井正雪が自決します。丸橋忠弥は8月10日に処刑。
その仲間であった4人(渥美次郎右衛門、芝原亦左衛門、同七郎兵衛および僕従甚三郎)は、駿府から逃げてきたのでしょうか。7月29日、丹沢山御林見守道より村に来て村民の家に泊まった。由井正雪と一緒にいたのならば、26日駿府(静岡)から3日をかけて、ここまで隠れ逃げてきたことになりますね。箱根の街道は通れるとは思えないので、足柄峠を越えたか、もしかしたら山中湖の平野村〜世附の間道を抜けてヤビツ峠(菩提峠)越えをしたのかもしれません。あるいは山中湖〜道志〜宮ヶ瀬か? とにかく布川流域に入り、札掛、唐沢川、物見峠を通り、煤ヶ谷に辿り着いたということですね。深い山を越え、ようやく久々の人里で一夜を過ごし、ほっとしたに違いありません。
ところが、それで油断でもしたか、密告により4人は捕まってしまいました。村はその褒美として、米300俵と鉄砲42挺の許可をもらって、それから副業として猟が行われるようになったとか。なんだか時代劇を見てるようです(いや、時代劇というか、まさにその時代だから(^^;)。
ちなみに、ここに書いてあるとおり、今でも煤ヶ谷正住寺にはこの4人の墓碑が残っているそうです。正住寺は、仏果禅師(仏果山の名前のいわれになった人)によって開山された寺です。
まさか、煤ヶ谷に、こんな歴史があったなんて、知りませんでした。

布川沿いの道は、宮ヶ瀬、鳥屋あたりから小田原に出る時にも間道として使われていたようです。修験者や、また大山講の人たちも、もしかしたら使っていたかもしれない。
このあたりの人にとっては、近くの都会というと八王子と小田原で、特に東丹沢周辺は伊豆韮山の江川家が代官を勤めていた時期が長かったらしく、何かとこの周辺の行政の中心地・小田原との繋がりは大きかったようです。
ここにも、江川太郎左衛門英征という名前が見えていますが、この人も韮山代官だった人です(江川家は代々みんな太郎左衛門を名乗った)。

ところで、昔の人は、小田原を早朝に出発し、昼過ぎには道志川あたりまで辿り着いていたらしいです。足速いですね! 実は、軽装で駆け抜けるトレランこそが、日本の伝統の山歩きスタイルなのかもしれない(^^;
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この日記へのコメント

登録日: 2013/9/15
投稿数: 1193
2016/3/11 20:38
 RE: 新編相模国風土記稿 煤ヶ谷村[その1]
煤ケ谷を要する清川村は何年後かになくなってしまう。。なにかのレッドブックにのっていました
宮ケ瀬村は水没してしまった。半原越は日本を支えた繭が越た。愛川町側には今でも炭焼小屋があり、仏果山山稜は楽しいし小鮎川の水は絶えず

臨場感ある資料ありがとうございました。
登録日: 2012/7/13
投稿数: 84
2016/3/11 23:50
 RE: 新編相模国風土記稿 煤ヶ谷村[その1]
え、なくなっちゃうって、清川村がですか?
水力発電は、クリーンといわれるけど、なにもかも無にしちゃいますからね。。。
群馬の川原湯温泉に好きな宿があって、何百年もの歴史のあるところで、何度か行きましたが、もうなくなってしまいました。
もうしばらくすると、東丹沢行けなくなるのが残念。
登録日: 2013/9/15
投稿数: 1193
2016/3/12 20:51
 RE: 新編相模国風土記稿 煤ヶ谷村[その1]
> え、なくなっちゃうって、清川村がですか?
行政上での話なので土地は残ると思われますw
おそらく破綻して厚木あたりに吸収されるのかなという予想

> もうしばらくすると、東丹沢行けなくなるのが残念。
お引越し? ああヒルかい
登録日: 2012/7/13
投稿数: 84
2016/3/15 1:11
 RE: 新編相模国風土記稿 煤ヶ谷村[その1]
村じゃなくなっちゃうんでしょうか。神奈川にも村があるって、楽しいのになあ。
厚木市じゃつまらないですね。

>お引越し? ああヒルかい
ヒルだけは勘弁。
ああいう系のムシだけはちょっと。。。(>_<;


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