非常に長文なのでご興味のある方は読んでください。
人穴とは富士山麓に数多くある溶岩洞窟の1ツであり、白糸の滝の北に直線で約5kmの場所にある。しかし古文章に数多く登場する洞窟で昔から色々な史話。伝説が伝えられている。
この洞窟に入ると生きて出てこられないとか鎌倉まで繋がっているなどと言われていた。源頼朝の子、頼家が二度目の富士の巻狩りのさいに、仁田四郎忠常に命じて人穴探検の調査をさせたが仁田四郎だけが生き延びて家来五人は洞窟内で命を落としている。その後頼家は和田平太に再度調査を命じている。この話は吾妻鏡や人穴草紙を始め、江戸時代の本に多く取り上げられているそうである。
また徳川家康が甲州との戦いで、織田信長の援軍到着が遅れ、大敗して逃げるときに人穴に隠れ、中で修行していた長谷川角行の機転で追ってから逃げることが出来たとも言われている。翌年、天海と共に人穴を訪れた家康が下賜し た朱印状がまだ残っているとのこと。
長谷川角行は人穴の内部で角柱の上に立ち、1000日間修行をして、現れた浅間観音菩薩により悟りを開き、江戸に戻り富士講を開祖した人物である。富士講の多くの人は富士吉田口登山道を登ったとされているが、富士講の聖地である人穴を訪れ、白糸の滝で禊ぎをして富士山に登ったと言われている。実際に人穴の洞窟前には現存でも200以上の富士講関係の石塔が建っている。
私も若いころ、人穴に入ったことはあるが実際に行けるのは100mほどで、後は這いずらないと行けないような小さな穴があったように記憶している。
長谷川角行が修行しながら当然、富士山にも数多く登ったものと推定されるがそれが人穴登山口であろう。しかし、明治以降の本を私の出来る範囲で調べたが人穴登山口の地図、概念図は発見できなかった。昭和6年発行の国土地理院の1/25000にもそれらしきルートは見当たらない。
けれど紀行、案内文として2冊に人穴口登山道についての記載が発見できた。1ツはイギリス大使館員アーネスト・サトウー著「明治日本旅行案内 中巻 ルート編」である。
参考まで少し長いが下記する。
人穴口からの登山
『当地からの富士登山を試みるのはおそらく時間に余裕がない人だけであろう。というのもこのルートは山麓を巡って吉田あるいは村山へ向かいそこから登山するよりも距離が短いのである。登山は非常に困難であって、山道が森林の中を行くので大半は眺めが得られない。旅館で案内人を雇うことができる。
人穴集落を出発すると道は丈高の草地を抜けて荒地を横切る。そしておよそ一時間ほど歩くと狭い凹凸した奔流の川原にぶつかるが、通常水は涸れておりここを三時間ほど登る。ある所では簡単に登ることができない険しい岩棚を避けるために左にわずかに回り道をしなければならない。時折森林の中に開けた空間がありそこから頂上が垣間見られる。ここにきて右側の森林に入って行く。はっきりした道があるわけではなく、しばし若木の深い下生えを無理矢理突き進んで行かなければならないが、常に地峡と平行になるような方向に登って行く。約一時間半の苦しい登りを経ると道は峡谷(日本人には滑沢という名で知られる)に戻り、もろい噴石と火山岩の上を登って行くとおよそ8500フィートのところでお中道にぶつかる。ここから先へは左右いずれかの行き方がある。すなわち右を選んで二時間半で村山登山道の五合目に至るか、左の小御岳を経由して吉田登山道の五合五尺目に向かう一時間半のルートを選ぶかである。』
もう一ツの記述は昭和18年発行「富士と伊豆の山々」(横井春野著)に簡単に書かれている。
『人穴の入口の西北に浅間神社及富士講開祖角行眞人の墓がある。ここから大澤流に向ひ、登り登って、お中道の天の浮き橋の所へ出るのである。名にしおふ大澤の嶮を登るのであり天候がよければよいが、風雨に出あふと避ける所がない。富士登山の経験のあるそして身體の壮健な人が天候を充分注意してでなければこの道はすすめ難い。人穴から浮き橋にゆきつく迄休む所はない。今では人穴の人でも、この口から登るもの稀である。本栖湖迄自動車でゆき、青木原を横断して精進口に出て登っておる。』
先に紹介した上井出口登山道は恐らく、大沢にぶつかってから人穴口登山道に合流してお中道に上がったものと思われる。
人穴から直接、大沢に行く道が国土地理院の地図発行以来、見当たらないのは昭和になり寂れてしまったためと思われるが、遊興のガイヅブックが戦時中に発行されていることにも驚きであり、「富士と伊豆の山々」に記載されているということは戦前には僅かではあるが人穴口登山道も歩かれていたのであろうか。今となっては私個人の力では調査・探索は不可である。
これで富士宮の富士山登山口の紹介は終わりですが今後、実際に歩いて調査した結果はその都度、紹介していきたいと思います。
去年まではただ富士宮口から登って下る富士山でしたが、村山古道をやったり、主杖流しにお中道散歩を体験することが出来まして、又ヒデさんの調査記録を拝読いたしまして・・・奥の深さを知りました。
来年も富士山にはお世話になります。
fujinohideさん、こんにちは。
興味深い内容なのでいつもじっくり拝見させてもらって
います。
人穴浅間神社、6月に行きました。人穴は怖くて降りられ
ませんでしたが。
並べられた石塔には圧倒されました。
神社の裏に道が付いていたので少しだけあるいて軌跡
を残したのですが、帰ってみてみるとすぐに県道71号に
ぶつかる方向でした。
あんな場所に浅間神社があるのだから、登山ルートも
あったのではないかななんて思っていましたが、なんせ
調べる術を知らないもので。
いつも貴重な情報ありがとうございます。
賢パパさん、こんばんは。
富士山に限らず、山には色々な楽しみ方がありますよネ。工場長さんのようにバリルートを楽しむも良し、回数を増やすも良し、あらゆる季節に登るも良し、歴史の道を歩くも良し。
私はどちらかと言えば一度登った山よりも登ったことのない山に憧れるタイプですが地元の富士山は、やはり地の利を活かして歩いてみようかな最近、思うようになりました。
millionさん、いつも拙文を読んでいただきありがとうございます。
富士山の地元ですので子供のころから富士山にかかわる伝説など聞かされていましたが、最近になって、それらに興味を持ち出し本を読んだりしています。
幸い、富士宮市立図書館には富士山の関する蔵書が2000冊以上あり、興味のある項目で検索して本の目星もつけることができます。
恵まれた環境の中で、富士山に関心のあるヤマレコユーザーさんに僅かでも情報発信できればと最近考えるようになりました。
明治43年 地質調査所 大日本帝国豫察東部地形図
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ichiko/kakezu/limes/U16-FN24.html
この地図の富士山周辺を拡大してみると
人穴という地名から富士山へ延びる登山道が
描かれていました。もしかしたら
これが人穴口登山道でしょうか?
その他
富士紀行―明治の富士登山
http://blog.keiyou.jp/fuzokugahou/post/2013/08/01/635104140773080000.aspx
(風俗画報 明治27年 79号 27頁 富士紀行)
貴重な情報、ありがとう御座いました。
古い江戸時代、明治初期の人穴口の概念図では精進湖口登山道に長尾山付近でぶつかる登山道が記されていますが、ご教示いただいた明治43年の地図は初めて見ました。
これによると精進湖口に行く道とも違いますし大沢に向かう道とも違いますネ。
アーネスト・サトーの著に出てくる滑沢は富士山西側に2ツあります。1ツは大沢のすぐ横ですが、もう一つは明治43年の地図に近い方向にあります。
横井春野著の本からアーネスト・サトーの滑沢は大沢横の滑沢と判断してしまいましたが明治43年の地図が正しければもう1ツの滑沢の可能性もありますネ。
一度、機会を見て調べてみたいと思います。
参考:
富士山の沢
http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/fuji_info/mamechisiki/c08/index.html
富士山人穴口登山道調査
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-547042.html
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