だいぶ昔の話なので詳しくは知らないが、心臓か何かの病気持ちの子を山に連れて行った結果、発病して亡くなってしまったらしい。本来連れて行くべきでない子を連れて行ってしまったという判断ミスだったのかもしれない。
部では、顧問のように面倒を見てくれるOBの先生がいたが、当時からOBだったその先生はその時のことを知っている人だった。
そのせいもあったのだろう。その先生は危機管理に対して非常に厳しく、僕らは様々なリスクに対する考え方を教わり、そして考えた。
『もし、万が一のことがあれば、一人を見捨ててでも、全滅を防ぐ決断を迫られる場合もある。そう言うことだって考えておかねばならないよ。』
世間一般ではよく
『山に絶対はない、万が一のこともある』
と言われる。
だが、『一人を見捨てでも・・・』などと面と向かって言われてしまうと、万が一でも事故が起こっていいなんて考えられない。
だが私達がリーダーの時は、かなり大きな課題を抱えていた。部員が40名以上に膨れ上がり、部全体のスキルの低下が懸念されたのである。
山の部活は、山好きが入るイメージを持たれる人もいるかもしれないが、すべてがすべてそうではない。
ウチでは一般的な部活のように『興味があるから』と入部してくる普通の子も多かったし、極端な話、障がい者の受け入れも検討していたなど、幅広く人を受け入れようとする部だった。
だが、山が初めての子でも、夏はアルプスを7-8泊するような本格的な合宿に参加するのである。
40人でまとまって行動はできないので6パーティくらいに分かれ、別々のコースを行くのだが、新入部員は1年に4〜5回の合宿を経てサブリーダーとなり、さらに次の年にはリーダーとなってメンバーの命を預かることになる。
ただでさえ部員に急成長を強いるのに、人数の増えると技術の習得、継承がさらに困難になる。それまで行われていた経口伝承や個人での勉強ではとても対応しきれず、リスクが高まったのだ。
『伝統だからと言う理由で行動するのはおかしい。何故それを行うべきなのか考え、理にかなった行動とるべきだろう?』
常々、先生から言われていた。
そこで僕らは逆に人数を生かす対策を打った。医務や気象、地図などの技術勉強グループを作り、普段のトレーニングに勉強会を組み込む。そしてそれぞれのグループ主体で全部員に対し新たに講習会や訓練合宿を催すようにする。
少人数で共に学び、そして教え合うというやり方をすることで、効率的に技術を習得すると同時に、一人一人がリスクに対する意識と責任意識を高められるようにしたのである。
僕らはリスクに対して考えることを通じ、過去に起こった事故の気配を感じとっていた。
しかし今回、那須の雪崩事故がこれだけ詳しく報道され、部活の事故というものをリアルに知ると、高校と大学の違いはあれ、自分たちの部でもこういうことが起こっていたのかもしれないと想像してしまう。
原因は雪崩が起こる可能性のある環境であったにもかかわらず、今まで起こらなかったと言う成功体験だけで判断してしまったところにミスがあるのかもしれない。
だが、
『先生は一生懸命やってくれた』
『生徒から慕われていた先生で、悪く言うことができない』
と言う父兄の方や生徒の声を聞くと、複雑な想いが伝わってくる。
僕らはOBの先生が好きだったし、尊敬していた。
『みてごらんよあの子!入部して来た時は弱々しくてかったのに一年経ってあんなに目つきが変わって!』
生徒の成長を嬉しそうに見ていた先生のことを思い出すと、彼らの部活動の中にも同じような、たくさんの思い出があったではないかと想像してしまう。
気持ちだけでは通用しないのが山であることがわかっていても、原因究明や責任追及をキッカケに、生徒や父兄の心の傷までが広がってしまうようでやりきれない。
ただ、亡くなった人は決して戻らないし、
残された人々にも大きな傷跡が残るだろう。
しかし、それがどんなに悲しい出来事だったとしても、その先には続きの物語がある。
大学生活最後の合宿に出発する直前の事。
OBの先生からこう言われた。
『万が一事故が発生した場合は刑事責任が発生することになる。あなたに責任が及ぶことがあるかもしれない。ただ、仮にそうなった場合は、僕がすべての責任をかぶる』
厳しさを決して表に出さない人で、私の目をしっかり見て、静かに微笑みをたたえながら言われた。
わざわざ口に出すようなセリフではない。だが真剣だった。
もちろん仲間を見捨てるような状況に陥らせることなどできない。
先生に責任を負わせることもできない。
そしてやるべきことはすべてやってきた。
もう
『万が一にも事故は起こしてたまるか!』
と思うしかなかった。
ただ、
今思えばその想いは、
『二度と事故を起してはならない』
という先生の想い、そのものだったのかもしれない。
登山は学生、社会人と続け、雪山登山やクライミングも始めるようになったが、大きな怪我や事故は一度もない。
今でも忘れる事はないあの時の想いはずっと私や仲間達を守りつづけてくれているのだと思う。
雪崩の事故で残された方々の心の傷が癒えるには時間はかかるかもしれない。
だがいつか彼らが立ち直ったとき、彼らの中に、そして未来の若者たちに受け継がれる大切なものがきっとあるだろう。
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亡くなった方々のご冥福をお祈りし、そして、残された方々の傷跡が早く癒え、これからの人生が良きものになることをお祈りしています。
考えさせられる日記です。僕も川や道や、それこそ何の変哲もないそこいらで幾人かの友人を亡くしました。僕自身も死にかけたことが数度あります。
話はズレるかもしれませんが、「自己責任」という言葉について恩師がこう言っていました。
「日本人が発する『自己責任』は責任を転嫁する側からの言葉だ。他人から言われたら直ぐに納得しないで、一呼吸おいて考えよ」と。
あらためて広辞苑を引いてみると、「自己責任」という語は載っていないのです。「自己」を引くと「自己の責任」と使い方で出てきます。コンサイス英和辞典(古いものですが)にも「Self−responsibility」という語は載っていません。日本語の責任は「任を責う」と書きますが、英語ではresoponse(応答)ability(能力)となっています。
企業の不祥事でもトップはテレビの前で「責任を取って」といい、「引責辞任」いう言葉を使いますが、「責めを負って」という意味がこめられています。日本人の根底に、責任は外にあるものと考えがあるように思えます。そこで他人があらためて「悪いのはお前だ!」という意味を込めて「自己責任」と浴びせるのではないでしょうか。
しかしあらためて言われるまでもなく、自分の行動(生きている証)の責任は、自分のものでしかないのです。
お互いにこれからも良き人生の一部として、山歩きを楽しみたいですよね。
wakatakeyaさんこんにちは
コメントありがとうございます。
自分自身、自己責任という言葉を使ったことがなく、いまいちピンとこない言葉だったのですが、コメントをいただき腑に落ちた気がします。
かすかにネガティブな印象を持っていましたが、責任は外、そのニュアンスはわかる気がします。確かに自分に対してはあまり使いませんよね。
私がこの日記を書こうと思ったのは、報道であそこまで原因や責任を追及されていることに、どこか違和感を感じたところもあります。
本当に建設的なのかな?
と。。。
人を非難することと、責任というのはちょっと違う次元の話なような気がしたのかもしれません。
自分の行動(生きている証)の責任は、自分のものでしかない。
簡単なようで難しいのかもしれません。
私はまだ足りていないところがあるような気がします。
cajaroaさん、こんにちは
今回の茶臼岳の事故は、私も色々考えさせられました。
同じ高校生の子を持つ親としての視点…
気分も、スキルもレベルも違いますが、命の危険性を孕んだ危険な遊びをしている事への自己責任について…
仲間と一緒に行った山行で、最悪の事態で発生する訴訟問題、刑事責任など…
ただ、最近思うのですが、山だけの話だけでなく、何かこうした事故や事件、はたまた醜聞に関してまで、異常なほどまでに、世間が原因や当事者への追及、弾劾をして、追い詰めるという事。
そして、何かあったら、ただでは済まないと、何かする側も守りに転じ、消極的になってきていること。
例えば、高校の山岳部では大キレットは禁止とかetc…
これを機に、高校の山岳部では、雪山は禁止とかになってしまうのでしょうか…
学校教育の話に限定してでの話ですが、私が小学生の頃の遠足での林間学校の山登りは表妙義の中間道でした(東京都の小学校です)が、今はないみたいです。
確かにそれで、事故は防げますが、益々子どもたちの、自分で色々判断したり、危機を乗り切る力が養われなくなるのではないか…
そんなことを、先日、私が師と仰いでいる山屋さんがおっしゃってました。
また、執拗に追い詰めることで、何も解決改善に結びつかない、世間の流れに、昨今の大衆心理の不気味さを感じています。
最後に、cajaroaさんの山の恩師のOBの先生のお話、真摯に読まさせていただくとともに、少し心が温かくなりました
machagonさんこんばんは
コメントありがとうございます。
高校の山岳部は雪山全面禁止とすると言う決め事は
私もちょっとちがう気がします。
夏山と違って装備や技術、判断力等求められるので、高校の部活で雪山をやる運用をすると言うのはそもそも大変なんだと思いますが、学校側が自分たちの運用能力でやれるやれないを判断するべきことだと思います。
私は高校、大学とワンゲル部だっのですが、ワンゲル部は雪山や岩をやらない山岳部と言う位置付けでした。先生の登山技術、運用、資金、かかわる父兄の意見などによってやれる学校によってやれる限界があり、自主的に判断して、線引きをしていたのだと思います。
やり手の先生がいたり、ガイドさんを呼んで講習を受けられるとかならいいですが、公立の高校とかだと経済的に余裕がなく、夏山でも装備が買えない子もいますし、また、山岳部はそもそも入る子が少ない傾向があり、ある学年は部員がいないなんてこともあります。
ただ、恩師の言葉を借りるなら『伝統にとらわれず、理にかなった行動をすべきだろう』です。工夫すれば、いろいろやれることはあるとも思います。
例えば近年のネットの技術を使うとかして、それぞれ高校が装備をやりくりしたり技術面で協力し合うとか。。。合同訓練自体は非難が上がっていますが、問題はその内容であって、各校が協力し合うという姿勢自体は理にかなった話だと思いますし、
最近ではボルダリングジムがたくさんできましたので、大キレット対策にトレーニングに活用するなんてこともできますので、時代ならではのメリットを生かして、いろいろ工夫できるのではないかとも思います。
何より、リスクに対して考え対策すること自体、リスクに対する意識を高めることにも繋がると思うのです。
去年、山レコ上で高校の先生が「部員の増加で共同装備のザックがたりない」と言う話が上げた時、みなさんと一緒に私も使ってないザックを寄付したことがあります。山レコを通じてぼくらが応援する手立だってあるんです。ほんと凄い時代です。
頑張れ!高校生!先生!
ですね。
cajaroaさんの日記を読んで、封印していた記憶が甦りました。
私の大学も、何代も前に死亡事故を起こしていて、山岳部が廃部され、ワンダーフォーゲル部になったとリーダー養成の机上講習で教えてもらいました。事故対策については、何パターンも作成し、いざという時どうするかを討論してました。
しかし現実には、机上の通りに事故は起きないのです。
私の代は、北海道の夏合宿で事故を起こしました。
雪渓で遊んでいて1年生が滑って怪我をし、ヘリコプターで道内の病院に運ばれ、北海道内の新聞に載ったと言う事もあり、リーダーを勤めていた同期は辛い日々だったと思います。
私は短大卒であったので、同期でありながらOGであり、当事者ではなかったのです。
この時の話は、30年以上経っても誰からも語られません。
先日、やっと同期から、語られた話がありました。
4年生、OGになっても、夏合宿に参加したのは、あの時の1年生達がリーダーとして、安心して山行ができるように少しでも力になれたらと、参加していたんだと言うことでした。
責任ってなんでしょうね?
今更ながら、あの時の同期たちに頭が下がります。いつか、そんな時もあったねと、あの事故の話も語ってくれる時がくるかもしれないし、こないかもしれません。でも、ずーっと友人でいたいです。同じ釜の飯を食った仲間として・・・
jikyoon
jikyoonさんこんばんは
私たちの大学も過去の不祥事は封印されており、多くを語られることはありませんでした。プライベートなところがあるし、それがあからさまになって不都合が生じたり、傷つく人もがいるからなのでしょうか。
責任ですか、、、
私は主将=学生責任者でしたが、私がイメージする責任は、責任者という言葉でしょうか。。。
責任者は状況を判断し今後の行動指示をする役割なので責任は、基本的には「責任を取る」と言った、”問題などが起こった後の話”というより、”問題が起こる前の話”のイメージが強いです。(もちろんHappyになるようにするプラスの話も含めて)
判断をするには、技術や経験が必要ですし、指示をするには仲間の信頼が必要ですので、
wakatakeyaさんからコメントいただいていた、responce ability の「ability」
=能力と密接に関係しているイメージで、心情的というより技能的なイメージがあります。
『責任をとる』といったような”問題が起こった後の話”は、私は責任とは別のイメージを持ってい「罰」や「償い」あるいは法律的なものといったものという感じがします。あくまで私の感じ方ですが。。。
おっしゃられるとおり、特に山の場合、判断をする上でグレーな部分や、読めない部分もあるし、それによって引き起こされる事故の悲劇が半端のなさは、、、
もし、事故を起こしてしまったら、何か罰を受けたり、償いをしなければいけないという気持ちにきっとかられるだろうな。。。わたしも、失われた命や傷ついた仲間に対し、何かせずにはいられないと思います。ただ、どこまでできるのか、何をしていいか想像もつきません。。。
OGになっても合宿に参加するそのリーダーのOGさんのお話を聞いて、お強い人だなと思いました。
本当に痛ましい事故でしたね。ただ私が思うのは、雪崩という事象の起きる確率と人間の感じる確率の差です。致死率でいうと1%はヒマラヤ登頂の致死率でとても高いと考えられています。雪崩の起きる確率は算定方法にもよるでしょうがその日その時に起きる絶対確率は非常にに低いとおもっています。特に新雪雪崩は予測は困難だと言われています。たしかに30cm 以上の積雪があったらどこでも雪崩が起きうると言いますが、その原則を当てはめたら、豪雪地帯で生活すること自体が矛盾を含んだものとなるでしょう。一方”経験”をつんだ方の危険感知度はいかがでしょう。99回大丈夫だったら次は危ないと考えるでしょうか。この斜面の雪は過去10回来て大丈夫だから今回も大丈夫だとなるのではないでしょうか。この点で、私個人は冬山経験を積んだ方が必ずしも安全な山行をするとは考えていません。体感できる10%の危険率を予知できるのは経験でしょう、でも生死を分ける1%以下の致死率を感知するのは座学が重要でだとおもいます。また体感できない危険1%以下の察知できるのは運が相当からんでいると思います。どの遭難事件でも、クラブ部員であればそれなりの訓練を経たうえでおきていると信じています。リーダーは与えられた情報の中で最善の判断を下したでしょう。その上でさらなる予想し得なかったことが起きたならば致し方ありません。私は遭難した後でその責任を問う姿勢自体に問題があると思います。ラッキーな生存例を成功体験と捉えるのは危険があります。事故が起きた後ではなんとでも言えます。我々は感知できない事象に対してビーコンを持参しフェールセーフ等、生存確率を高める努力をする必要があると思います。一時教員として山岳活動に携わっていましたが一部の山岳会は学生をあまりに子供扱いしすぎると思います。そんな風潮がかわって独立した責任の持てる個人として、登山を楽しんでいただきたいた思います。安全で楽しい登山を今後ともおたのしみください。
ReyHさんこんにちは、
はじめまして。
事故の原因等について私もパートナーと議論もしましたが、
今回のようなケースだと私のような第三者がこのような場で原因追求をしても、責任問題にもつながり亡くなった方や残された方の傷口を広げてしまうような気がしています。※この日記では極力触れないようにしています。
少なくとも私の部では、事故があったことに対して、シンプルに意思と言うかたちで後輩に伝わり、生き続けた。でもそれは大きいと思っています。
いまでも初心者を山に連れいく機会があります。
『100回山に行って99回無事というレベルの人、そんな人50人が一斉に山に行けば、2回に1回は事故がおこるよね。』
などと例えて安全について説明するのですが(実際の確率論というより、分かりやすく説明するためのモデルですが・・・)、仰られるように、実質的には安全の基準は限りなく『絶対』に近いものと私も考えています。
雪崩に限らず、夏冬、様々なリスクがあり、対策は各組織や個人で環境も課題も違うので、『絶対』に向けて、各自で考え、実行していかねばならないのでしょう。
今回のような悲しい事故を絶対に起こさない。
ということを本当の意味で各自が自分の課題に対して対策できるのであれば、事故を無くすことだってひょっとしたらできるのではないでしょうか?
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