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氏が山を通して辿り着いた哲学とか思想を開陳していて、成程と共感を覚えた。武甲山、秋田駒ヶ岳、有明山、餓鬼岳等百名山以外の山行記も多く読んでいて楽しい本だ。スキーとはスキー板を担いで登り、最後に滑走するものとし、リフトだけのスキー場には距離を置く等を筆頭に一貫して日に日に便利になっていく世を嘆く。文明が山を切り拓くにあわせて、野生の山を求めて深山を彷徨っている印象。
タイトルの「瀟洒」は、"しょうしゃ"と読む。難読である。俗っぽくなく洒落ていると言う意味で、日本の自然の美しさを表題の一文で述べている。現代人からすれば、殆ど偏屈じじいだが、読むと共感を覚える箇所もある。
以下、目に止まった箇所を備忘録代わりに書き出しておく。
・登ろうか引き返そうか思案した。はるばるここまで来たのだ、登ろう、と心中の強硬派が言う。この雨では、苦労して登ったって、何も見えはしない、と軟弱派が反対する。単独登山の欠点は、こういう場合、手もなく軟弱派の言を容れることである。雨に罪を負わせて、私は下山の途についた。いざ山に背を向けると、何だか落第生のような侘しさがあった。(「春雨の山」より)
・ワンダーフォーゲルと言う言葉がこんなに流行りだしたのは、いつごろからだろう?当時私はまだそんな安直な略語を知らなかった。近ごろスタメンとか、リモコンとか、いずれ十年ともたない言葉であろう。(「ワンダーリング」より)
・一点の雲もない快晴よりも、風景が生きるのは、雲や霧が千変万化の微妙さを演じてくれる時である。晴れた山はやがて見飽きてしまうが、雲は山を、時に雄大に、時に神秘に、時に優雅に見せてくれる。待ち望んだ山が、ふと雲が切れて、その隙に不意にチラリと現れた時など、何という嬉しさだろう。(「すばらしい雲」より)
・労せず獲得したものに大したものはない。額に汗して獲たものの貴いのは、その内容が充実しているからである。中学生の勉強にアンチョコというものがある。私たちの時代には虎の巻または道楽と言った。それを使用すると、しごく安直で便利で、一々字引を引いたりする苦がない。その代り本当の実力はつかない。ケーブルは山登りのアンチョコみたいなものである。(「非合理なもの」より)
・登山とは大変非合理なものである。理屈では割り切れない。なぜ辛い目をしてそんな高い所へ登ろうとするのか。明確な返答はない。ただ、「山へ登れば、なぜとも知らぬ心の抑揚」とでも言うほかない。これはテニスンの詩である。頂上に立って、なぜとも知らぬ心の抑揚を感じるのは人間だけである。(同上)
・近ごろ息子や娘たちがしきりに山に出かける。親としては心配でならない。どこにそんな魅力があるのか。私は親をハラハラさせる青年が大好きだから、大いに冬山の美しさを説き楽しさを語った。遭難?まあ交通事故とあきらめるんですな。事実はそんなにやたらに遭難はない。新聞が2つ3つ大きく掻き立てられる裏には、その何十倍、何百倍が安全に帰ってくる。万一の遭難なんぞ怖くって山に行けますか。(「冬山の季節」より)
・避け得られぬ遭難はないというのは、合理的には真実かもしれないが、登山は合理主義だけでは律しられない。何もかも計算で済んだら登山とはさぞつまらないあそびになるだろう。何が待ち構えているかわからないところに大きな魅力がある。登山とはもともと冒険である。それを合理の裏付けによって一つ一つ乗切って行くことは肝要であろうが、大自然は人間の合理主義よりは上である。そこにリスクがある。(「遭難」より)
※一部文章を中略している
写真は八方尾根での雨上がりの空模様
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