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つらつらと日記など記すので御座います
突然ですが画像1を御覧ください
(C)お前はまだグンマを知らない 井田ヒロト著 より
富岡製糸場の鉄水溜で工女が自殺した(1923年に入水自殺)とある。
※人が一人亡くなっているので黙祷をお願いします
半年前にこの漫画を読んだとき、富岡でも人間関係とか仕事とかで悩み、自殺してしまったのだろうか?? お気の毒に。。と思った
そして昨日読み返して、あっ!! となった 1923年!
依田佐二平の松崎製糸場と多くの土地が人手に渡ったのも”1923年”
横浜の倉庫に集積していた生糸が焼失して大きな負債を抱えてしまったのだ。
※しかし生糸の焼失ごときで経営が回らないとは、どんだけギリギリなんだ。。
ちなみに1923年の富岡製糸場は官の手を離れ、原富太郎(原三渓)(原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚し原家に入る)の所有となっている(明治39〜昭和13年)
こちらの富岡製糸場と原富太郎は、1923年を乗り切って復興にも尽くしたそうだ。生糸の輸出は一時・神戸港に移った。
もしや自殺した工女さんは、東京・神奈川の出身で家族全員が死亡した上、負債を抱えた、、等。。という背景も見え隠れしてくる
ヒロト氏がどこでこの情報を得たかは解らないが、おいら”今の時点では”追わないことにする
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以前、西伊豆の戸田を訪ね養蚕の現地調査をしたところ、戸田の養蚕は一部農家のバイト感覚ということが解った。→つまりしょぼい
しかも西伊豆(東伊豆も)は、断崖が海岸に落ち込む地形のため、明治37年に中伊豆を貫通させた中伊豆・修善寺と下田が天城トンネルで結ばれようやく陸路から馬車が通る有様。
しかし海岸周りは相変わらずの手付かずで、隧道を駆使し海岸に136号を全線開通させたのが1953年(昭和28年)という遅さ。その後も崩壊が相次ぎ常に通行止めになっている酷道である。
■養蚕はまだしも製糸工場などありえない海運主体だった孤島の伊豆。。陸路は新道で、しがらみのないリゾートと海サイクリング
これが伊豆半島に通っての現実で、それを楽しんできた(^^
★写真2
なので何回も松崎を訪れた挙げ句、旧道にあった看板・繭クラフト展から、ようやく依田佐二平の松崎製糸場と富岡六人娘を知ったときは、己の感覚の乏しさに乾杯し(爆)、松崎シルクとの出会いに鳥肌が立った
知識をひけらかす訳ではないが、この漫画に書かれている"1923年"とは何か。
国難であり個人の命や財産も失われた。同時に復興の喜びの年でもあり、
理由は解らないが一人の富岡工女も自ら命断った年。なのだ
★写真3
富岡の夏祭りの告知ポスター
明治の頃、英ちゃんたちも参加したそうだ
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