眠くならずに聞いてほしいw
どこかで、俳句は『挨拶と滑稽(山本健吉)』と書きましたが今でもなるほどと思う言葉です。
俳句は挨拶
五七五の中で相方や土地、その土地に生きた人、草花やお魚に挨拶する。地層や建物・鉄道・郷土資料や楽器、伝説の人に挨拶するのもありだ。
俳句は滑稽
その挨拶から滑稽をひねったり
そこに季語の刺激が加わる。
いわせてもらえば、現代人は季語に対して敏感じゃないんだと思う。
例えば”燕”という季語がある。
”燕”から何を連想するか? ”鶯”から何を連想するか? では梅は?桜は?
という具合に多くの季題がある。
燕に戻ると、燕はフィリピン辺りから陸のない経路を数千キロ渡ってきて、自分の巣に辿りつくという。いわば愛の鳥であり、鋭い飛行も見せてくれるし、電線で休んでいる姿はいわば燕尾服w
燕飛ぶ碓氷の坂の廃軌道 ほの香
訳:燕が楽しそうだ。中山道の廃軌道にw
つばくろやまだ寒残る青野川 ほの香
訳:燕が来てびっくり。寒い青野川に(この場合青野川がどこかなんて解らなくていい・青色が滑稽)
んで自前の句を例に出しすいませんが、燕という想像類想に慣れていないから想像発想が広がらないということはないでしょうか?
燕はフィリピン辺りから陸のない経路を数千キロ渡ってきて、自分の巣に辿りつくという。いわば愛の鳥であり、鋭い飛行も見せてくれるし、電線で休んでいる
芭蕉の言う”東海道の一筋も知らない人”
鑑賞する側も勉強しろ、、という話です。
昔の俳人は理屈ではなく本当に街道を歩いていたらしいので、俳句鑑賞する人に対しても”街道歩きせよ”というのが本意。
ならばおいらのような、プラプラ俳句チャリダーにとって俳句は願ったりでありますが、季語以前に二十四節気ぐらいはと思います
”燕”、どうぞ一句
Honocaさん おはようございます。
”おにやんま 釣り糸垂れる 竿の先”
遙か昔、息子が小学生の頃、学校で詠んで持ち帰った句です。
つたない句ではありますが、この十七音に触れたとき、僕は俳句の神髄を知らされたような気がしました。特に最後の五音「竿の先」によって辺りの静寂さや、川の流れの音、釣り人の心情、周りの情景が見えてくるようで、生き生きとした世界が広がってくるのです。
これほどまでの世界をたった十七音で描けることに驚きを禁じ得ませんでした。俳句とはそういうものなのかと。
俳句は僕にとって、そう遠いものではありませんでした。父親が俳人でもあったので、子供の頃から常に家の中に俳句が転がっていました。転がっていたという表現はあまりよくないのかも知れませんが、全く興味のなかった僕にはまさに言葉どおりの感覚でした。
齢を重ね、今、僕の机上には歳時記や美しい日本語辞典や大和言葉についての書などが立っています。句は詠まないものの、言葉にはとても興味があります。言葉の持つ意味や、そこから広がる世界がなんとも愛おしいと感じます。
僕の心の琴線に触れた句で、”咳をしてもひとり”と詠んだ自由律俳句の尾崎放哉に恋人との別れを詠んだ”わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき”という句があります。避けられない従姉妹であり恋人である女性との別れが心にしみます。
Honocaさんの日記に触発され長々と駄弁を弄しました。
”燕”の句は僕には詠めませんが・・・
失礼いたしました。
こんばんは、todora5502さん
おにやんま釣り糸垂れる竿の先
> 特に最後の五音「竿の先」によって辺りの静寂さや、川の流れの音、釣り人の心情、周りの情景が見えてくるようで、生き生きとした世界が広がってくるのです。
いわれる通りかと
俳句には書かれていませんが恐らく”川釣り”で
んで竿を止めている時にトンボが止まったという光景が見て取れる
秀句かと
多分、ハヤかオイカワ釣りではと、、
お父さんが俳人だったのでは、僕とは違い知らず知らずのうちに日本語を覚えられているのだと思います
蜻蛉の句も燕の句でも、、もしくは詩でもよいではありませんか。
特に山歩きと俳句は荷物が増えることもないので、お勧めコラボですよ
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