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2016年05月22日 11:02宮内敏雄氏『奥多摩』メモ全体に公開

荏ノ久保山と不動山について(先日のヤマレコ訂正)

昨日(5月21日)奥多摩の旧峰畑集落の将門神社を訪ねた。
結果は建物はかろうじて見つけることができたが、急斜面で降りることを断念、現地までは行けなかった。
そのために下調べで複写をした昭和4年発行の1/5000地図「五日市」を今朝改めてみていると、「375日ぶりです。やっと帰ってきました本仁田山。」のレコで間違って記述した箇所があったことがわかった。
荏ノ久保山と不動山についてである。
『復刻版奥多摩』宮内敏雄氏著に以下の記述がある。
「山ノ神から東南に延びて独標六六六となる峰頭は荏ノ久保山だ。荏ノ久保山は一に不動山とも称される。現在は棚沢神社に合祀されている、不動明王の祠が元はこの山腹にあったからこの名があるのである。」
現地に行くと、不動山と書かれたテープが木に巻き付けてある。現在の国土地理院の地図で見ると標高666mくらいを表している場所である。荏ノ久保山は不動山よりさらに東に行った標高672mの箇所である。
しかしよく考えてみたら、宮内敏雄氏の『奥多摩』は1944年(昭和19年)に発行されている。著述にある地図はその当時のものである。そして、昭和4年発行の1/5000地図「五日市」の荏ノ久保山の箇所をみると標高が666と記載されている。
ということは、不動明王の祠があったのは荏ノ久保山の方だったのだ。
さらに、私は「不動明王は将門山不動尊(通称三面不動尊)なのではないか」と推測した。しかし、考えてみると違うのではないかと思った。まず地元の方のお話しだと、棚沢神社は熊野神社を指すとのこと、よくよく思い出してみると、拝殿?又は本殿?の向かって左側に小さな祠がひとつ、さらに熊野神社を起点とする大根ノ山ノ神への登山径の登り始めてすぐの右側に小さな祠がひとつある。もしかしたらこのどちらかではないか?
早速『奥多摩町誌』民俗編の棚沢の熊野神社の記述を探す。
p197に「明治四十一年、将門神社を廃して、これを熊野神社に合祀することとなり、将門神社の本殿、灯籠等をここへ移し、明治四十四年拝殿を新築して現状に至っているのです。」
あれだけいつもお願い事を聞いていただいているのに(ほぼ100%叶えていただいているのに本当にすみません。)、熊野神社の構造が思い出せない。
例えば昨日参拝させていただいた羽黒三田神社は、二つのお社が手前と奥にあり、それがつながっている。おそらく手前が拝殿、奥が本殿だと思われる。だいたいの神社はこういう構造が多いように思う。
もし手前に拝殿奥に本殿だとすると将門神社の本殿は奥に該当するであろう。
違う場合は拝殿?または本殿?建物の左側の祠が将門神社の本殿か?すると残りの祠が不動明王の祠の可能性があるのか?
いずれにしてもまた、現地に行ってみないとわからない

奥多摩はひとつひとつの集落が深すぎる、だから面白い

写真は左側が1929年(昭和4年)の1/50000地図、右側が現在の地図です。
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