山岳月刊誌『山と渓谷』には毎号二編の読者紀行文が掲載されています。16年前、2003年3月号には対照的な二編が掲載されていました。
当時は編集誌側の寸評は書かれてなく、投稿者の年齢や投稿に至った背景は不明ですが、文才に富む面白い紀行文だと思います。
投稿者の氏名を伏せ、句読点や仮名使いはそのまま書き写しました。
【山小屋の詰め込み主義を問う】
昨年夏の山行でのことです。お盆休みということもあり、最初から混雑は覚悟しての登山でした。が、泊まった山小屋は、混雑を通りこして収容所というほかはなく、疲れを癒すどころか疲労を深めに泊まったようなものでした。
最奥部にある山小屋ゆえに設けているはずの「原則として予約制」があまりにも機能していない。原則を設けている以上は、小屋側の「過失」もしくは「故意」と非難されてもおかしくない収容状況。それが当然と考えてのことだとすれば、経営精神を問わざるを得ない。そう思って投書しました。
私が泊まった日は、通常の布団よりわずかばかり広い布団一枚に三人という割り当てでしたが、足と頭を互い違いにして横になっても、両肩を布団につけることができない。手を置くところもない。わずかな身動きもままならないまま、夕方六時過ぎから翌朝四時半までじっとしている以外にないのです。
人を踏んでしまうのでトイレにも行かないでと、部屋の入口側の人が言う。なかには一晩中座っていた人もいた。一晩中と言いきれるのは、私も横になっているというだけで、ほとんど寝ていないから。
消灯前にさすがに文句を言う人がいたが、小屋のアルバイトの青年が「きのうも同じくらいでしたが、みんなおとなしかったですよ」と、話にもならない比較をもちだしてたしなめる。青年を責めても仕方がないが、彼は自分の言っていることがわかっていない。みんなおとなしくしているのは、ここよりほかにどこにも行くところがないからです。言ってみても仕方がない、観念するしかないから。ただそれだけのことなのです。
窮屈に加えて酸欠。息苦しさに耐えかねて窓を開けてくれるように言う人もいましたが、そんなことをしたらカゼをひいてしまうと窓側の人が言う。これもごもっとも。私はちょうど梁の下に寝ていましたが、夜中に水滴が落ちてきて困りました。雨漏りかと思いきや、それは人々の呼気が凝結して水滴となったもの。つまり、飽和水蒸気量を超す吐息と熱気に包まれ、むせそうになって一晩かたまっていたということなのです。しまいには体が痛くなってしまい、私も起き上がって座りました。早く朝が来るのを祈るだけのつらい時間が過ぎていきました。
早く夜が明けてくれるといい。一刻も早く外に出たい。誰もがそう思って過ごしたと思います。当然、翌日は寝不足のままそれぞれの行程につく。こうなっては、事故を起こしやすい登山者を量産するために山小屋は機能しているようなものです。山奥にある小屋は、疲れた登山者を迎え、そして送り出す役割を担っているはずなのに。
ちなみに、雨の日こんな状態だったらどうなるのでしょう。着替えも出来ず、ザックもなにもかもぬれたまま。翌朝その状態で寒風のなかに出ていくのかと思うとゾッとします。「それがいやなら山小屋にはくるな」と言う筋合いのものではないはずです。小屋があって、予約を受けつけてくれたから、私のようなものでもやってきたのですから。
私は山の経験はまだ浅いほうですが、どんな山小屋にも不都合はつきもの、そう思いながら、感謝しつつ利用させてもらっています。なかには、不便ななかにも、経営者の思いやりがすみずみに感じられたり、アルバイトにいたるまで感心するほどに経営方針がゆきわたっているところもあります。どちらにしても、どこかにそれぞれの山小屋らしさが現れているものだと感じます。
だとすると、私が泊まったこの小屋は、あまりにも配慮が足りないのでは?登山者の安全のためにも、山を譲るということからも、見過ごしてはいけないことのように思いました。
【さわやかな山小屋をたずねて】
昨今の山小屋には、個室どころか一泊何万円もするスイートルームまで用意されているところがあるという。登山者の要求に応えていくことも、資本主義社会ではいたしかたないことであるが、その弊害も大きい。自然の処理能力を超えた大量の糞尿、登山道の破壊などなど。
かっては、登山口までの長い道のりを歩かねばならなかった。その過程で観光気分の人びとや体力のない人たちはふるいにかけられて、適当な登山者数にしぼられていたのであるが、林道が整備され、車の性能が向上したことにより、ほとんどの山はだれでも気楽に登れるようになった。
その結果、山小屋も大規模化した。ともすれば、マスコミはそのような大きな山小屋を優先的に取り上げがちである。しかし現実は、一年間に迎える客の数が、大規模な山小屋の一晩の宿泊者数に等しいような小さな山小屋のほうが多いのではないか。そのような小さな山小屋が、地道な努力をいとわない登山者の支えになっていることも事実である。
私も、あと十年もすれば、テントを担いで高山に登ることはできなくなるであろうから、そのときは山小屋を利用せざるを得ない。利用するからには、気持ちのよい小屋に泊まりたいと思う。こぢんまりして、設備は必要最小限で、あまり便利な場所ではなく、なによりも小屋を守る人たちが、心から自然を愛する人であってほしい。そのような山小屋を、山登りのついでに探しているこのごろである。
最近、久しぶりに出かけた山域に、その小屋はあった。昔ながらの小さな小屋である。小屋の前のテント場にテントを張った。ふつうなら、小屋の発電機の音がうるさいのだが、ここにはそれがない。聞こえてくるのは、小鳥の声と、夕食を準備する登山者が使うガスコンロの音だけである。
空腹を満たし、テントでひと息入れていると、「小さな音楽会を開きますので、テントの方も小屋へどうぞ」と、小屋の主人の声。事情がのみこめぬまま小屋をのぞくと、質素ではあるがこぎれいな室内に、十人ほどの宿泊者が、布団に横たわったり、座ったりしている。「寝る前に、私のへたなオカリナの演奏を聴いてください」とはにかみながら、いかにも人ずれしていないようすの主人が切り出した。
予想もしていなかった音楽会に、われわれはとまどいながらも、ほのぼのとした雰囲気が小屋に広がった。小屋の主人は三十代半ばと思われるプロレスラーなみの偉丈夫。奥さんは、背筋のピンと伸びた、ひかえめな性格に見受けられる美人。なんともすがすがしいご夫婦である。明日は下山する予定であったが、もう一泊このテント場で過ごすことに決める。
翌日は、山並みの展望を楽しみ、高山植物を愛で、四十年ぶりの山頂に立って、テント場へ帰る。今夕も、小屋の主人の呼びかけに誘われて音楽会へ。今日はケーナの演奏が聴けるという。二五〇〇メートルもある高地でケーナを三十分以上も吹く、その心肺機能に驚く。
演奏後、小屋の前庭で、ご夫婦をかこんでしばしの会話を楽しんだ。この小屋は、夫婦だけで切り盛りしているとのこと。シーズン初めに燃料と米類をヘリで上げる以外は、主人がボッカで荷物を担ぎ上げているという。発電機の音がしないことを聞いてみると、屋根に太陽光発電のパネルがあり、食料保管用の冷凍庫と、夕食時の蛍光灯のみに電気を使っている由。蛍光灯は使いたくないが、ランプだけだと暗いという不満の声があるそうで、いたしかたなく、夕食時のみ使っているそうである。
会話のはしばしに、できるだけ人工的なものを山に持ち込みたくないという気持ちが感じられ、好感を持った。小屋の周りの環境にも、気が配られているようすをうかがい知ることができた。その晩は原生林でフクロウが「ゴロスケホーホー」と鳴いていた。
翌日は快晴に恵まれ、気分よく下山した。そこには、近代的な山小屋に大勢の登山者が群がっていた。
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