大正に入り陸地測量部により地図完成が目前に迫る中、奥穂高岳山頂にも三角点を置くことになり、殺生小屋建設の準備で忙しい小林喜作のところに人夫を集めて神河内に来るように話があり、長男ともども参加したそうです。
既に老齢を迎えていた上条嘉門次はそのころ前穂、奥穂、北穂と呼ばれ始めていたが、穂高とはウェストンとともに歩いた前穂であり、北穂への通過点であった奥穂に今更三角点を置くことを不思議がっていたそうです。
さて喜作たちが重い三角点を背負わされ頂につくと不自然に石が積み上げられていました。
調べると今井重太郎がケルンを建設中であるという。
時の陸地測量部長の矢野目孫一が即座に中止命令を出すが、そこはお役所仕事、稟議を回しているうちに、大正4年には既に10尺に積み上げられその上に神社まで祭られていました。
怒り心頭の陸地測量部員たちは山頂付近に喜作が保管していた三角点を涸沢カールに投げ捨て、それ以来三角点設置の話は立ち消えたそうです。
翌大正5年に奥穂高岳には三角点はないまま全国の地形図の完成が公式に発表されました。
この投げ捨てられた三角点は昨年の10月にザイテングラード付近で発見され、今は安曇野の大町山岳博物館に赤いナイロンザイルのレプリカ岩の近くに現物が展示されています。
ただケルンの今後については環境省で富士山のブルドーザー道とともにワーキンググループが発足し検討をはじめたそうです。
今日は4月1日。
別に西洋かぶれではありませんが、このぐらい書いても許されるでしょう。
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