奥穂高岳夏合宿
- GPS
- 256:00
- 距離
- 50.9km
- 登り
- 6,965m
- 下り
- 6,647m
コースタイム
8/9 北穂高
8/10 滝谷
8/11 ジャンダルム
8/12 事故により松本へ下山・病院に入院
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
---|
感想
1965年夏合宿穂高岳
涸沢入山 昭和40年8月6〜7日
パーティ L 吉野 大島 軍司 神出 細谷
8月6日、夜、急行アルプスにて私達先発隊は、穂高岳涸沢に向って出発の第一歩をふみだした。登山者でいっぱいになった夜明の松本駅から島々ヘ、島々から上高地行のバスに乗りこんだ。
バスの中で私は眠っていたので中ノ湯も大正池も知らずに上高地迄ついた。バス停二階の食堂にて腹ごしらえをして、私達一行は涸沢に向って長い行進が始まった。上高地からすこし歩くと、カツパ橋がある。橋には観光客やキャンパーの姿で混雑していた。この時初めて前穂高の姿を見る、雲一つない晴れた日なので前穂高がカツパ橋の上に浮き上って見える。なんと美しい風景なんだろう、思わず観声をあげずにはいられなかった。
梓川の流れにそって林道を歩きつづけると明神館についた、ここからは明神岳東面が目の前に見える。ここまでくると、この先には観光客の姿は見えなかった。延々とつづく梓川の流れにそって重荷を背にした、私達は快調なペースで歩く。徳沢園に上高地を出てから一時間五○分位でついた。なおも林道を横尾へと歩きつづけた。横尾の手前迄来るとクライマーの憧れである屏風岩が姿を見せる、垂直に切れ落ちた岩は圧倒的に見える。いつか、こんな岩壁が登れたらたらいいなと私は思った、そしていつかきっと登って見せると一人言をいっているうちに横尾の小屋についた。 槍ヶ岳廷登る道を涸沢に入る道との別れである。私達は橋を渡った。屏風岩の下を廻って本谷橋についた。
本谷橋から涸沢までの道、これが私たちにとって、えらく時間を消失した。途中で何回か荷を下ろしては休んだ。穂高は見えるのに一向に涸沢にはつかない。私はもう今日中に涸沢に入れないかと心配になった。上高地から約八時間かかって、涸沢のテント場についたと同時に重荷をドカと卸し、すわうこんでしまった。三○分後にはテントも張られ、夕食の時がきた。これで、今日一日の仕事が終ったと思うと急に身体が疲れを感じた。シュラフザックに入るとすぐ深い眠りに落ちこんでいった。
(記 6期 細谷 稔)
新宿 22:00 アルプス2号
松本4:07-4:19 島々 4:50-5:05 上高地 6:55-7:50 明神館 8:30-8:45 徳沢園 9:30-9:40 横尾 11:00-11:55 本谷橋 13:10-13:30 涸沢 16:40
夏季合宿本体入山
8月7-8日
パーティ L 大沢 加藤 中村 川那辺 山下 小林
陽ざしのさしはじめた冷気のなか、上高地に降り立つ。ざわめくハイカーの中をぬって明神へ歩を運ぶ。木立に囲まれた小道はたとえ天下の滝谷へ通ずる道であっても、キスリングを背負った一団は奇妙にさえ思われる位ハイカーのメッカである。
明神から徳沢園の間もすれちがう人々の列は絶え間なく続き、徳沢園も横尾もかつてのただずまいはない。
横尾橋の近くにて大休止、フライパンでジュージュー焼いた肉の美味しかった事。
約一時間休んだ後,OとKの二名を残して出発、それまで単調な道と違ってぺースが乱れはじめた。本谷まで暑さにむせながら冷水で喉を潤す。Oが追いつきKは徳沢へ向ったという。涸沢に入り道は急登となる。少し歩いては休み、又行っては体み、段々バテてくる。荷物の重くなったOは遅くなり、叉トップにいたNは一人先に行ってしまった。後から来るサブザックのハィカーがどんどん追い抜いて行く。ペースがすごく遅くなったためかBCには着かない。やっと小屋が見えても全然近ずかない感じである。その直下Yが腹痛を起こし道の脇へ座り込んでしまった。YとともにK先輩も残ったので一入BCを目ざす。小屋のすぐ下なのに何回も何回も休んでやっと天幕地に着く。ちょうど滝谷から帰った先発の方々が降りて来たのでそのまま他の人を迎えに行ってもらう。
なつかしいFACのテント前には先に来たNがニコニコと笑い顔で待っていてくれた。暮れようとする涸沢を囲む山々に向いながら「登りたい」という想いに胸が締め付けられそうになった。
記 小林久美
クラック尾根 記 軍司克己
8月9日
パーティ L 加藤 中村 軍司
BC 5:25 北穂高 8:00-8:10 取り付き点 9:00-9:30 ジャンケンクラック 12:00-12:30
稜線14:30-15:30 BC 17:00
加藤さんをリーダーとして、中村さんと私の三人で、5時25分BCキャンプを出発、北穂への道を体調を整えるのに苦労しながら歩む。天気は快晴、北穂高の山頂に着く。初めてみた北アルプスの全貌は新鮮であり、偉大な光景であり、そしてショックであった。10分の休みの後、取り付きまで歩を進める。B沢の下降は互いに注意を要し、途中取り付き点を一ヶ所あやまって旧メガネの下部に出てしまったが、誤りと気づき再び下降し、P2フランケが真正面に構え、暗く隠れる第一尾根の壁を眺める取り付き点に9時到着。9時30分に登攀を開始。2ピッチで旧メガネのコルに着き、ここから2mほど降り小さなクラックを利用して、テラス上部に着く。クラックが「入」型に入っており、乗り越すと、広いバンドが走っている。さらに上のテラスを目指す。ジャンケンクラックは10メートルほどで、真ん中を登る。上は浮石の多い不安定なT6・T7までB沢側に、浮石を注意しながら行くとガラ場で踏み後のあるT8に着く。北穂は赤旗が立てられており、それを目指して登る。さらに、左よりの凹角を登ると踏み跡が北穂高小屋まで導いてくれた。稜線にトップで出る。BCへ下る。
涸沢岳東稜
8月10日
パーティ 中村 軍司
BC 7:30 ザイテン 8:20-9:00 涸沢岳下部 9:40-9:50 取り付き点 10:0-10:20 ツルム 11:30 終了12:20-14:00
今朝も調子よく、ザイテンから、ガラ場をトラバースして取り付く。2時間で登攀終了。
途中ツルムだけが注意すべきところだった。ここで明日、登る女子のために打ったハーケンを後発のパーティに持っていかれてしまった。中央稜パーティのルート指示を行い、N曰く「まるで、ルート指示に行ったみたい」な登攀であった。
「北穂からジャンダルム」 記 高橋
8月11日
パーティ L軍司 山下 高橋
東壁パーティを送り、叉一寝むりして、テントキーパーの二名と四尾根パーティを残して、BCを出る、南稜の登りは風が快い。
北峰で松波岩の横に出て、滝谷をのぞけば、ドームの姿が心憎い。(せっかく、ルートを憶えて来たのに)クラック尾根を前日登って来たGは滝谷の概要を細かく説明してくれる。北峰を下れば滝谷へ入るのであろう、女性クライマーの姿が無性に目につく。雪溪を過ぎ、四尾根へ入るI達に会って、「遊んでるんじゃないと」どなられた。涸沢槍の頂上から、明日の登攀するルートの説明をGにしてもらう。明日登攀だ、穂高小屋での小休止、小休止はまちがい、大休止でした。奥穗の頂上を見あげると、雲がある、一線にならんで来る。すわ、寒冷前線だ。さあ、急ごう。雲が来るのは早い。雨が降りはじめた、ジャンヘ向う。馬の背あたりから激しい雨に変った。リーダーは「登るか。」と聞く。「登ります」ここまで来たんだ。こんな所で帰えれるのか、自分の心の中で答える。ジャンのポロポロの岩が冷たく姿をあらわす、Tフランケ、正面フェース どれも私の手ではどうにもならない。頂上に立てば激しい風と雨に写真どころではなく、そうそうに下る。馬の背を過ぎれば、もう水の溜ったホールドも、何も関係がない。広い稜線だ。東壁は、四尾根は、自分への反省が心の中に渦く。穂高小屋へとびこめば温いお茶が憎い。昼食を取って小屋を出る。病みあがりの私をGは細かく気をくばってくれる。下降しはじめれば、稜線ほどの風はない。ぶき味な落石の音が、雨の中に響く、小屋を過ぎればBC、エールを掛ければ、メガネが出る、天幕の中は、温いホェープズの音だけだった。
夏 (事故報告)
8月11日午後7時35分、天幕内にて、コンロに燃料補給の為コックをゆるめると同時に気化したガソリンが隣にて使用中のコンロに引火して、コンロ消火時に天幕入口附近にて火傷を負う。
ただちに涸沢ヒュテの東大医療班に手当を受け12日早明七名にて横尾山荘に下る、山荘より車で上高地迄行き派出所にて車チャター松本病院に向い入院する。
反 省
今度の事故に関してコンロ使用上のことにあると思うこと。天幕内でのコンロのロックの開閉は今迄天幕外で行われていただろうか?全員が深く反省する次第である。
事故が発生すれば、たとえどんな事故でも、他の人に迷惑が掛かるという事を十分に考えなければならないと思う。当事故にかぎらず個々が気をくばり対処出来る問題である。又警察署を初め、東大鉄間クラブ、涸沢ヒュッテ、横尾山荘の皆さんに最後迄御世話下さいました皆様には何と御礼の申し様が無い気がします。
鎌 田 靖 史 記
以上は私が20歳の時の穂高合宿の記録報告。会報より。文中Gとあるのは私のこと。
事故は私が火傷をしたこと。
涸沢での火傷事故により、松本の国立病院に1週間ほど入院したのだろうか。3度のやけどを左太ももに受けた。原因は登山から帰って、カマボコテントの中でホエブスを二発炊いていたが、一つがガス欠になったので、燃料(ガソリン)を入れようと、ホエブスのキャップを不用意に明けたのがいけなくて、揮発化していたガスが漏れて、もう一つのホエブスの火で引火したのだ。その炎に包まれたホエブスを外に放り出そうとしたときに、テントの入り口を開いていた私にそれがあたって、私の体に火がついたのだ。岩場だけどテント場で転がるように火を消した。
ライトをもってきた深田さんが私の足を見ると血が出ていた。涸沢には東大の診療所が夏にはあるので、そこまで岩の上をはねながら行く。玄関を開けて土間の脇の床に座り込み、火傷したと、医者に告げたとたんに動けなくなって、気を失ったようになった。
翌日、顔を包帯で巻かれて、シュラフに入れられて、背負子で横尾まで下ろされた。雨宮先輩や牛山先輩たちに担がれて、上高地まで降りた。たぶん登山者の多くにじろじろと見られていただろう。ほとんど記憶にない。
国立松本病院に入院する。吉野さんが上高地からタクシーで病院まで一緒だった。ほとんど記憶にないほどに寝ていたのだろう。
そこで看護婦のチカちゃんとであった。
それが松本物語のはじめであった。悲恋ですけどね。1967年の夏に悲しい結末になった。小説がかけるかも知れない。うぶな時代の物語。松本は青春の町なのだ。
この記録が残せてよかった。
感想に描かれているものは、当時自分が所属したFAC(F・アルパイン・クラブ)の会報の報告を転写しました。記録が残っていてとても喜んでいるのです。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する