先日、手稲山スキー初登頂100周年を記念して、初登ルートの永峰沢から登った話を書いたが、この北大スキー部員8名による100年前のスキー初登頂という記録が、どうもアヤしいのではないか?という重大な?疑義が生じてきた。
というのも、北大スキー部出身の加納一郎が、昭和2(1927)年発行の「北海道のスキーと山岳」の中の「手稲山の想ひ出とその近況」という文章で以下のように書いているのを見つけたからである。
「往年の萬歳山のことに就ては私もはっきりとは知らないのであるが、それは極く初めの頃、何でもスキーで手稲山に登らうと云ふので出かけたのだ相である。大方この頃はまだ地圖が假製版か何かであったのだらう。夏でさへ登った人が珍しい頃である。折柄の大吹雪を犯して無事、頂上を極め、萬歳を三唱して意気揚々と引あげて來たのであるが、あとでよく調べて見ると近くの小さな峰に登って得意になってゐたのだ相である。これを萬歳山事件とする。」
いつのことか書かれていないので、“萬歳山事件”が大正2(1913)年2月11日の“スキー初登頂”のことかどうかはわからない。しかし、ここに“スキー初登頂”当時の報告の文章を重ね合わせてみるとどうだろう。
「谷尽きて尾根に上がり進に傾斜八〇度を超して攀登に大困難を感ぜり。四百米の地点にて昼食をなし再び登る。この辺より吹雪大に到り、困難を極めた。午後二時半頂上着、白樺の小木にアルシ(ママ)板に姓名を彫らしたものを結付け、スキー部の万歳を三唱して下山についた。頂上は海抜一千米の地、積雪約八尺ありき。吹雪甚しきも寒気は左程でなかった。兎に角我スキー部が札幌に於る手稲山冬期登山のレコードを作ったのだから愉快だ。下りは支え滑を以て最も除口 (ママ)に滑降し、登路を辿って下った。三時五分にて頂上を出発して麓に四時十分に着いた。のち琴似より汽車にて札幌に凱旋した。」(「スキー部報告」『』)
これを読むと、ことは明らかなように思える。「大吹雪」「万歳三唱」という二つの要素が一致しているからだ。どちらも格別珍しいこととは言えないが、全体の状況からみて、この二つの文章は、同じ出来事を描いていると考えるのが妥当ではなかろうか。
このときに手稲山に登っていないのではないか、という疑惑を傍証する状況証拠?もある。所要時間が短すぎることだ。
現在の平和の滝に近い永峰沢の出合付近から、今年私が登り5時間、降り2時間かかったところを、登り4時間、降り1時間しかかからずに往復しているのだ。
勿論、現在なら普通のスピードだろうが、その数年後でさえ「リーダー格と云へども、複杖を持ってゐる人は極く稀で、山向きのキックターンなんか、とても見られなかった。ステムボーゲンと半制動で、ジッヘル第一を旨とした」(加納一郎・前掲書)というような技術で、とても山頂から1時間で滑り降りてはこられないように思える。
登りにしても、当時はシールなどなかったはずだし、「傾斜八〇度を超して攀登に大困難を感ぜり」などと書いているぐらいで、そんなに速いスピードで登ったとは思われない。
「昔の人の足の速さには驚かされる」で済ませていたが、私自身登っているときに、本当に100年前の人たちは頂上まで行ったのだろうか?と疑問を感じたのも事実だ。
こう見てくると、やはりとても頂上まで登ったとは思えなくなってくるが、では、どこに登ったのだろう?771m標高点付近だろうか?それほど山頂らしいところではないが、このあたりまでくると、かなり平らで、猛吹雪でホワイトアウトしていれば、どこでも山頂と思えてしまうかもしれない、としか言えない。
ところで、昭和2(1927)年発行の前掲書で、大正2(1913)年の手稲山スキー初登頂を否定している?加納一郎だが、それ以前の大正13(1924)年8月発行の「山とスキー」第40号に書いた「北海道スキー登山史」には、この記録を載せている。加納は大正13年から昭和2年の間に「萬歳山事件」のことを知ったのであろうか。
また伊藤秀五郎も昭和4(1929)年に書いた「北海道におけるスキー登山の発達」で、これを手稲山のスキー初登頂としている。そいうこともあってか、この記録が今でも認められ、高澤光雄「北海道登山史年表」などにも載っているのだろう。
「日本スキー・もうひとつの源流【明治45年北海道】」の中でレルヒ一行による明治45(1912)年4月の羊蹄山スキー登山を検証し、登頂していないと結論づけた中浦皓至も、手稲山スキー初登頂については検証抜きで認めている。
さて、ではもし大正2(1913)年2月11日に登頂していないとすると、本当のスキー初登頂(=従来、第2登とされていたもの)はいつなのか?ということになるが、実はこれがはっきりしないのである。北大スキー部部報(15周年記念号)の年報で次に手稲山が出てくるのは、4年後の大正6(1917)年3月25日だが、そこには「第六回手稲登山ー發寒より登り初めて軽川方面に下れり。途中にてネオパラダイスと称せる良滑走地發見。以来手稲山登山益々盛となり毎年一月より三月迄で殆んど毎日曜登山す。」とある。また加納一郎の「北海道スキー登山史」では「1914年より1916年まで記録不明なるも、此の間二、三回同様コースより登山せるものの如し。」となっている。大正2(1913)年2月11日から大正6(1917)年3月25日の間に4回、永峰沢から登られているのではないか、ということぐらいしかわからないわけだ。
という訳で、次の記念登山は、2017年3月25日の「ネオパラ発見100周年」ということになるだろう。
別にウソを糾弾しようという訳ではなく、ちょっと面白そうなので調べてみたものです。
こんばんは
大発見ですね
専門家が調べたはずなのに、資料を読んでみるとちゃんと書いてあることって、やはりあるのですねえ。どんな分野でもあるそうです。ネットなんかじゃわかりませんね。
実際に登ってみた、というのもやっぱり決め手の一つと思いますよ。シール無し、一本杖で再挑戦したら、決定的かもしれません。
でもこれから当分、100周年の節目がたくさんきますね。北海道も、内地も。
万歳山っておもしろいですね。
はじめまして
北大スキー部十五週年記念號を所有しています
その中のある寄稿に、あの登頂は間違いであった事が明記されていました
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