来年、2013年の2月11日(建国記念の日)は、手稲山スキー初登頂から100周年の記念日にあたる。そこで、この日に初登ルートからスキーで手稲山に登ってみるなどしたいと考えている。
今年、2012年は北大スキー部の創設100周年で、いくつかのイベントが行われた。100年前、北大生たちが、ハンス・コラーや三瓶勝美(間接的にはレルヒ)といった人たちを通して、どうやってスキーを知り、スキーに魅せられ、スキー技術を学び、スキー部を創設するに至ったかはここでは述べないが、そうして明治45(1912)年の夏にスキー部を創設した部員たちは、冬を迎えて翌大正2(1913)年の紀元節(2月11日・現在の建国記念の日)に手稲山にスキー登山を行っているのだ。
彼らは前年3月(ということはスキー部創設前)、三瓶中尉から講習を受けた後に三瓶とともに藻岩山に登っているし、その後には三角山にも登っている。しかし、どちらも300〜600m程度の山なので、それよりはるかに高い千メートル峰である、この手稲山の登頂をもって、札幌・北海道における本格的な山スキー、そして冬季登山の嚆矢としても、あながち間違いとは言えないのではないか。
さらに言えば、明治45(1912)年4月にレルヒらが行った羊蹄山スキー登山は、頂上までは達していなかった(いずれにしろスキーで頂上まで行けたわけではないのだが)、というのが今では定説になっているので、手稲山が北海道で最初にスキーで登られた千メートル峰とも考えられる。実際、加納一郎の「北海道スキー登山史」に掲載されている登頂リストでは一番最初に挙げられているし、日本全体としてみても、かなり早い時期のものといえるのではないか。
この手稲山スキー登山について、中浦皓至著「日本スキー・もうひとつの源流【明治45年北海道】」(北海道大学図書刊行会・1999年)には、以下のように書かれている(P188〜189)。
手稲山初登山
大正二年二月一一日、紀元節の日に稲田昌植、野村竜吉、松本儀一、荒木忠郎、柳沢秀雄、二木春松、吉屋浅雄、角倉邦彦の八名が手稲山に登っている。午前八時、札幌駅から汽車に乗って琴似駅までいき、そこから馬橇をやとってハッサブ谷へ入った。一〇時半、谷間に進路をとって登る。
「谷尽きて尾根に上がり進に傾斜八〇度を超して攀登に大困難を感ぜり。四百米の地点にて昼食をなし再び登る。この辺より吹雪大に到り、困難を極めた。午後二時半頂上着、白樺の小木にアルシ(ママ)板に姓名を彫らしたものを結付け、スキー部の万歳を三唱して下山についた。頂上は海抜一千米の地、積雪約八尺ありき。吹雪甚しきも寒気は左程でなかった。兎に角我スキー部が札幌に於る手稲山冬期登山のレコードを作ったのだから愉快だ。下りは支え滑を以て最も除口(ママ)に滑降し、登路を辿って下った。三時五分にて頂上を出発して麓に四時十分に着いた。のち琴似より汽車にて札幌に凱旋した。」
これが手稲山へのスキー初登山であり、北大スキー部として本格的な最初の冬季登山であった。
伊藤秀五郎は「北の山 続篇」に収録されている「北海道におけるスキー登山の発達」(1929年8月20日執筆)の中で
手稲山は大正二年の二月に初登頂されている。このときの一行は八名で、コースは発寒(ハッサム)から当時の夏登山路にしたがって永峰沢にはいり、その左方の尾根を頂上に登っている。それから三、四年はこの登路が行われていたが、大正六年三月にはじめて軽川方面(現在の手稲町市街)に下り、途中で快適な滑走斜面を発見した。ここはネオパラダイスと呼ばれるようになった。大正七年以降は距離とスロープの関係から、軽川方面からの登路が一般的になった。この年あたりからスキーはしだいに普及してきた。そして手稲山はほとんど毎日曜登られるようになった。ただし、当時の手稲山は第一級の登山に属し、相当の熟練者でなければ登高は不可能とされていた。
と述べている。
また前記・加納一郎「北海道スキー登山史」の「手稲岳〔一〇二三・七米〕」の項目には、
一九一三年二月一一日 琴似驛より馬橇にて発寒に到り永峯澤の左方を登る。當時夏道また此の方面よりせり。下山路また同じ。
一九一四年より一九一六年まで記録不明なるも、此の間二、三回同様コースより登山せるものゝ如し。
一九一七年一月二一日 琴似より平地滑走にて発寒に到り頂上に達せり。同月二七日 琴似より馬橇により発寒に到り頂上に達せり。同年三月二五日 発寒より登り初めて軽川方面に下る。途中にてネオパラダイスと稱せる良滑走地発見。
(中略)
冬期間殆んど毎日曜登山者たゆることなき有様なれば、その詳細盡し難し。一九一八年以後は全て軽川より四〇六米高地を経て雁皮平より登り、ネオパラダイスを経て降るもの多く、近年発寒川方面より登山せるものなし。
と書かれている。
これらを読むと、手稲山の冬季初登ルートは、現在ではほとんど登られることのない永峰沢ルートであったことがわかる。実は私は昨年2月、このルートを推定し、ほぼそれに近いルートを登降している。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-101095.html
特に面白いルートとは言えないが、来年2月もこのルートをたどるしかあるまい。
しかし、この初登時の記録、「傾斜八〇度を超して」というのは大げさすぎて「白髪三千丈」の世界だが、驚くのは、「困難を極めた」と言いながら、登り4時間、下り1時間ほどで登降していることだ。昨年の私は、単独でのんびり行ったこともあるが、もう少し時間がかかっている。それなのに、スキー技術を習って2年ほどのスキー部員たちが100年前に、貧弱な装備で、たぶんシールもなしで、こんなスピードで登って降っているのだ。昔の登山者のスピードの速さにはいつも驚かされる。
さて、来年2月の100周年記念登山、永峰沢を登り、降るだけではつまらない。初めてパラダイス・ヒュッテに泊まり、どこかのルートと組み合わせてみるかな。参加者が沢山いれば、集中登山もできるのだろうが...。
先人の記録を辿って百年前の山行を思い知る、僕の好きな山行スタイルです。札幌に居た頃はたどり着けなかった境地なので、この話も初耳でした。手稲山も実はまだ未踏です。いつかこのルートで個人的な初登をしてみたいです。
町にある高層建築を全て想像の中で消し去って、白い石狩平野の上に居並ぶ手稲連山が見えるようです。
冬は山に入れば、あっという間に百年前に戻れますからね。樹相が戦争で変わってしまった事はありましたけれども。
今では忘れられてしまったルートをたどるというのも好きなので(この手稲の永峰沢もそうですが)、古いガイド記事、ガイドブックなども時々探してみたりします。
加納一郎の前掲リストによると、手稲山に続くスキー(冬季)初登頂は、毛無山(小樽の塩谷丸山に近い方)、羊蹄山の1917年、奥手稲山、百松沢山の1919年になってしまい、次の100周年まではしばらく間があるので、何とか来年はやっておきたいところです。
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