著者のアーノルド・ラン(Arnold Lunn)は、登山家・スキーヤーとして知られた人物で、英国山岳会(The Alpine Club)の会員であると同時に、アルパイン・スキー・クラブ(The Alpine Ski Club)の創設者の一人で会長も務めた人物。数々の著書があるが、この本の原著“A Century of Mountaineering”は1957年の出版。
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スキー登山
冬期登山は登山の小さな変形にすぎない。岩峰には、7月よりも1月に雪の少ないことがよくあるし、しかも普通の冬の状態は、登山の技術や技法になにも根本的に、新しい課題を設けることなしに、ただ登攣の困難性を増大さすだけのものである。
ところがスキー登山は、登山の単なる変形(バリエーション)ではない。それは二つの偉大なスポーツ、登山とスキーが縁組を結んだ結果できたものである。冬山の登山家が、夏山の登山家と全く同じ目的、つまり自分の足で目指す峰に登り、そし下りてくるという目的を持っているのに、スキー登山家は、ある峰の登攀やまたはある峠の横断だけを目的とせず、スキーでの下降が可能かどうかにも関心をいだくのである。
山はスキーヤーに、山を愛する新しい恍惚とした道のあることを示してくれた。そのために計画の作成は、大変に異ってくる。登山家は、自分の足で登ろうとスキーを利用しようと、もちろん安全の問題に対決させられる。スキー登山の場合の安全の問題は、主として雪崩を避けることであるが、なお、その上に、スキーヤーは下降に理想的なスキー・コースの選択や、最良の雪の状態を得るために、下降の時を定めることも計画に入れねばならない。
タイミングの選定は、晩春において一番大切である。晩春には一日のある時刻には申し分なく、そのうえ安全なスキーイングの楽しめる斜面が、それから一時間後には愉快にすべれないのみならず、危険性をもはらむことがあるからである。雪面は、早朝には堅く凍りつくのが常態であるが、それは、滑降には少し柔らかくなったものよりも魅力の少ないものである。そのためにスキーヤーは、表面(クラスト)が柔らかくなりはじめた時を、普通、下降の時と定めている。スキーヤーは高い山から谷の高所にあるクラブ・ヒュッテまで帰る場合、普通、朝日で雪面の表層だけが柔らかくなり、下層がまだ堅いままの時に、下れるような計画を立てることは容易であるが、谷までスキーで下る場合には、斜面の下の方が良い雪で、上の方が氷化している時か、あるいは頂上付近の斜面は、良質の雪でも下の方に下るにつれて太陽でくさり、危険な状態になっている時かいずれかにきめねばならないであろう。
ところが堅い表面が、フィルム・クラストとわたしが名づけた砕けやすい氷のうすいやわらかい層に被われている場合には、夜明けには氷河の斜面で、下に下っては完璧な春の雪で、理想的なスキーを楽しむことができよう。この場合にスキーヤーは、保守的な人種であるガイドの反対を押し切って、わたしがよくやっているように、真夜中前に小屋を出るように主張するとよい。フィルム・クラストは、太陽によって柔らかにされる前でも、理想的なスキーができる。回転をすると、柔らかいフィルム状の氷の層が離脱して、山の小川の静かなさらさらという音に似た音をたてて、斜面をはね落ちて行くのである。フィルム・クラストは、理想的な表面を備えている。《頂上の斜面は、フィルム・クラストしますか、もしそうならば、真夜中前に小屋をたちます》これは、スキーヤーが解決せねばならない多くの問題のなかの一つである。
夏の登山家が知らねばならないことは、雪が体重を支え得るほどに堅いかどうかということと、それから柔らかかった場合には、雪崩が起きそうかどうかということだけである。夏の登山家が単純な部類に分類している雪が、スキーランナーには、千差万別に複雑化されている。スキーランナーは、スキーの技術に重要であり、またそれ自体とくに要求される、雪の等級の全段階を認め、しばしば迅いスピードですべってる時に認めることを学ばねばならないのみならず、それを予言することも学ばねばならないのである。
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出版から半世紀以上を経た本だし、語られているのはもっと昔、20世紀初頭〜第二次大戦にかけてのことが中心で、その当時と現在では山スキーを取り巻く環境は大きく変わっているが、本質の部分は何ら変わらないことがわかる。アイス・クライミングが高度に発達した現在から見れば、「しかも普通の冬の状態は、登山の技術や技法になにも根本的に、新しい課題を設けることなしに、ただ登攣の困難性を増大さすだけのものである。」という部分には異論もあるだろうが。
「フィルム・クラスト」という現在も使われる用語がアーノルド・ランによる造語だということもわかって面白い。
それにしてもこの本は、諏訪多栄蔵が「解説」(あとがき)で「どうも訳者たちの手に負えないところもあり、こなしきれていない、むずかしさが残ってしまったところがある」「やはり手剛い本であった」と書いているように、直訳調の訳文にはかなり問題がある。上に掲載した文章の最後の部分など、何を言っているのかさっぱりわからないし、それに続く文章の中の
「彼らはどちらも、アルマーでも、当時英国山岳会の連中に、押しかけの臆面なき野心家とみなされていた、単なるスキーヤーが避けていた間違いをやったのだという意見に憤ったが、ウンナのその当時の状態が、今日のそれとひどく異なっていたかもしれないだろうという説が、議論しようとする唯一のものであった。」などという部分はやはり同様である。
ところで、アーノルド・ランは秩父宮と親交があり、同じ第13章の最後に「日本の秩父宮殿下」という一節がある。
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日本の秩父宮殿下
天皇の弟で、その当時推定相続人であった日本の秩父宮殿下は、1926年1月、ミュルレンについた。天皇はわたしに秩父宮のハイ・アルプスでの最初の山行に同行してほしいといってきていたので、わたしは、われわれの五月のオーバーラントでの氷河ツアーについて、必要な打ち合わせをした。
殿下は手腕のあるロック・クライマーであり、申し分のないスキーヤーであった。殿下ほスキーヤーとしても、クライマーとしても、傑出はしていなかったが、山を愛することにかけてはだれにもひけをとらなかった。彼が皇族間に配布されるある雑誌に寄稿した論説は、少し神秘性のあるものであり、《山そのものは永遠の命の象徴としてそびえ、強大な精神的なものの表現の役をしている》と結ばれている。殿下はあとで引用するが、マイクル・ロバーツが、現実よりもむしろ象徴を敬慕する人々についていったような、非難をうけはしなかったといわれよう。
殿下と偉大な友であり、また副官でもある松平男爵とは、ともに戦争〔第二次大戦〕に強く反対した。そして戦争が勃発した時、イギリスに好意をよせ、偉大な勇気を示した。わたしが太平洋戦争勃発の時まで、駐日大使をしていたサー・ロバート・クレーギーから聞かされたように、殿下はイギリス人が大使館に拘禁されていた時、食糧が非常にとぼしいことを知り、一番よろこびそうな食糧をたくさん送り届けてくれたのであった。
わたしは秩父宮殿下が英国山岳会と、大英スキー・クラブの名誉会員のままで、おなくなりになった、といえるのがうれしい。わたしは殿下にわれわれが一緒にやった山行のことも書かれている、わたしの著書《追憶の山々》〔1948年〕を、おなくなりになる少し前に贈呈した。
《わたしは(と殿下は善かれている)、もっとも気のめいる時代に、この本を読んで、いかに楽しく、また慰められたかをあなたにお知らせしなければなりません。東京のわたしの家が空襲で焼かれた時に、英国スキー年鑑をはじめ、山とスキーに関する本を全部失ってしまったので、1926年の春、アルプスであなたと一緒にやった、忘れることのできないスキー・ツアーの記録をみつけ、特にうれしかった。》
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これも部分的には非常にわかりにくい訳文だが、「皇族間に配布されるある雑誌」とは何のこと?そこに寄稿した論説って?というのは、ちょっと気になる。
英語の授業の予習で苦し紛れに訳した自分のヘンな日本語を思い出すと、決して人の事を笑えませんが、この時代はまだまだプロの訳でもこんなかんじで出版されていたのですね。確かに山の名著、訳がひどくてどうしても読み進めないものが幾らかあり〼。などと文句言わず自分で英語で読め!というのがスジですけど。
僕も、山の志向は山スキー的な育ちですから、スキーを使わない冬山登山というのはどうも発想的に違和感があり〼。とはいってもスキーは山登りの計画貫徹のあくまで道具です。ラン氏のように時間帯の制約までを考えてというのは、かなりスキー重視派なのかな。
秩父宮殿下の時代は幸福でしたね。今の日本の山は、皇族ののんびりできる居場所はなさそうです。殿下の自宅本箱もアメリカに焼かれてしまったのですか。戦争末期に日本が失ったもの、本当にたくさんです。
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