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そういえば、たしか中学の時だったか、父と一緒に無意根に登ったのを思い出した。父の目的は昆虫採集だったから、大蛇ヶ原までしか行かなかったかもしれないが…。母や親戚と一緒に山に登ったことは何度もあったが、父と二人きりというのは、あまり記憶にない。父が無意根に登ることも、父と一緒に山に登ることも、もう二度とないのだと思うと、何だかちょっと切ない思いにもなった。
そして先週、父が次のショートステイに行っている間に無意根山にスキーで登った。登頂後、30数年ぶりに無意根尻小屋に泊まり、薄別登山口に降りた。30数年ぶりとはいえ、不思議なぐらいこの薄別コースのどこにも全く記憶がなかったが、大蛇ヶ原だけは、雪がある季節は初めてにもかかわらず何となく見覚えがあった。
父のアルバムを見たら、空沼やヘルベチヤの写真とともに、60年近く前に無意根に登った写真があった。
無意根山は苦しい想い出だったんでしょうか?
私も父とは、一度だけ丹沢の大山へ行きましたがあいにく天気で途中引き返したのですが、あとで聞いた話では父は体力的に辛かったのだとか?小学生の私には天気のせいにして下山
kennさんの無意根山を見ていました。
こんなコースで行けるんだ!と興味深く見ました。
お父様と、そんな素敵な思い出の山なんですね。
ご家族とも山に行けれた様子、山好き家族の中で
育った幸せな子供時代が垣間見れる、暖かな日記です♪
kennさんへ
お父上と出かけた山小屋ということですが、私も東北の山小屋で同じ体験があります。
お父上にとっても、思い出の小屋なんですね。
私も何度か通った無意根の小屋なので、kennさんの新しい山行記録の写真を懐かしく見ました。壁などは修繕している様子ですが、昔のままの造りですね。
外のトイレの位置も同じです。
宝来小屋は、新しい避難場所ですね。
この沢は、イワナが多かったです。
http://trace.kinokoyama.net/hokkaido/muine-sapporo75.6.htm
kennさん、こんばんは。
コメント書こうか迷いました。私の父もちょっと認知症で。
たまに日記に書いて、自分を励まして、自分に納得させています。
ちょっと、辛くなりますよね。
araigengaさん
父は、昆虫採集がしたくて山岳部に入ったのに「速く歩け」と言われてまいった、というような人で、自称・高所恐怖症。「君子危うきに近寄らず」がモットーというか、親戚と一緒に、たしか恵庭岳に登ったときなど、頂上岩塔の前で、「こんな危険なところを登るのは、おっちょこちょいなヤツ」てなことを言って、我々が登って戻ってくるまで、そこで待っていたぐらいです(それだけ心配性で慎重なおかげで、足腰が弱った今でも、階段などであまり転んだりする心配がないのは有り難いですが)。
九州生まれの関東育ちなのでスキーも下手で、滑っているのを見たことはほとんどありませんが、そんな父でも戦中・戦後に春香山という札幌近郊の山にスキーで登っている写真があります。それだけ札幌では山スキーはポピュラーだったということですかね。
marikkaさん
高校山岳部に入る前の小中学時代に、ヘルベチアや空沼岳、恵庭岳からアポイ、羊蹄山、夕張岳、表大雪の縦走まで、家族や親戚と登りました。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/userinfo.php?pnum=10&act=data&req_uid=1890
その頃は、特に山が好き、という感覚はなかったんですが、その後の私に影響を与えたことは間違いないでしょうね。ただ父は、仕事の関係もあって、これらの山行にほとんど参加していません。父は山登りよりも昆虫採集が趣味で、私が小学生の頃は、よく母と日曜に車であちこち連れて行かれました。父も母も、花なども好きで植物採集もしていたようですが、私はどちらにも全く興味がなく、水遊びなどしてました。
父と二人での山と言えば、真夏に薮こぎで宮の森シャンツェの山に登ったことがあります。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-43201.html
tanigawaさん
父も恵迪寮出身です。といっても戦中の話ですが。
tanigawaさんが札幌の山に登られていた頃は、私の高校時代と重なりますね。
無意根山には8回ぐらい登っていますが、調べてみたら、無意根尻小屋に泊まったのは意外にも今回が2回目(34年ぶり)でした(父と行った時は日帰り)。土曜の午後に高校を出て、明るいうちにここまでたどり着くのが大変だったのか? しかし、銭函峠を越えてヘルベチヤまで行ったり、空沼二股から万計沼の空沼小屋まで行くのと比べて、そんなに大変とも思えません。定山渓までのバスは長く高かった(400円)というのはありますが。同じ理由からか、積雪期に無意根に登ったのも、5年前のGWが初めて。11月や5月末にゾンメルを持って行ったことはありましたが。と言う訳で、壁を滑るのも初めてでした。
無意根尻小屋は窓がサッシになっており、ストーブは暖かかったですが、ヒュッテンブッフが80年代後半以降のものしかなかったのが残念です。
宝来小屋は、ちょっとだけ古い地形図を持って行ったら、どうしても位置が違ったのですが、新しい地形図を見たら場所が変わっていました。
宝来沢というのは、地形図に小川と書かれている沢ですね?あそこで、そんなにイワナが釣れたのですね。実は私は沢は好きなのですが、釣りと相性が悪くて…。
citrusさん
お父さん関連の日記、以前ちょっと読ませていただきました。うちの父は、昨年母の死をきっかけに認知症の兆候が現れ、独居が難しくなったのですが、家がいい、施設はどうしてもイヤということで、私が昨年、東京の会社を辞めて同居することになってしまいました。独り者だからできたのですが。
失業中・無職だというのに、ヘルパーが来ている間には裏山に登り、父がショートステイに行くと、近郊の山に行くという呑気な生活を送っておりますが、父はショートステイに行くのもイヤだイヤだと言い、何だかぼーっとした状態になって帰ってくるので困っています。介護保険にもいろいろ問題があり、まったく先が読めない状態なのに、これからどうするのか?という問題から目を背けて山に登って逃避していていいのでしょうかね。
ところで私の高校時代の山仲間(山岳部の同期生)は、弘前大のワンゲルに入ったのですが、その年(1978年)の夏に、暗門大橋のところで泳いでいて心臓麻痺を起こして亡くなりました。というわけで岩木山には何度か登ったことがあります。青森の山は他には八甲田に二度行っただけです。
暗い話ばかりですみません。
kennさん
お初にお邪魔します
ganと申します
お父さんとの無意根を巡る思い出に、ほろっとさせられました
大事にして欲しい思い出ですね
私の父は一昨年亡くなりました
趣味らしき趣味もないオヤジが山に狂い出したのは60を過ぎてからです
一緒にアチコチ登りました
カムイエクウチカウシ山に登ったとき、コイボクカールにいる羆を見つけて二人で見続けたシーンがいまだに蘇ります
死んだときも葬式でも不思議と悲しいという気はなく、涙の一つも出ませんでした
薄情な息子です
その数年前倒れて入院しました
見舞った後で春香小屋に泊まりました
多くの仲間と酒を呑んでいるとき、倒れた親父を思い出し、周囲の目がありながら激流のように流れ出る涙を止めることができなかった
そんなことをkennさんの日記を読みながら思い出してしまいました
ganさん
お父さん、年をとられてから山を始められたんですね。
息子と一緒に日高にまで登ることができたのは、お父さんにとっても、とてもうれしいことだったのではないでしょうか。いい思い出になったことと思います。
私は今、父と二人で暮らしてますが、一緒に生活しているだけで、何か一緒にやる、しかも楽しんでやることをなかなか見つけられないでいます。
ところで
“沢ガイド本”今日あたり買おうかと思っています。
明日の“つぼ岳”も参加させていただきたいと思います。
kennさん
そうでした
あのkennさんでしたね
お初ではなかったですね
私の親父は私と正反対のまじめで無趣味、余計なことを話さず黙々と仕事をする忍耐強い性格でした
そんな親父が山に狂い、毎週のように一人でも登りだし、私とも随分アチコチ登りました
よい晩年を送れたのではと勝手に思っています
つぼ岳登頂歓迎します
一献傾けましょう
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