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飯能駅に着いたのは12時過ぎ、いつか食べたいと思っていたうどん屋「古久や」を思い出して立ち寄った。店の前の椅子には10人程度のお客が待っていたので先を急ぐことにした。ちなみに開店は11:00だそうだ。博物館に向かう道すがら、飯能河原上・観音寺の駐車場の一角に「ざくろ庵」の旗が見えた。ここも以前から訪れたいと思っていたうどんやで食べることが出来た。ちなみに観音寺には多くのザクロの銘木が植栽されており、堂内の鬼子母神像は西川材・檜の一本作りで、右手にザクロも持っているそうです(博物館に通じるザクロ坂にあった「ザクロの里の由来」の説明版に記されていた)。
飯能市立博物館は、平成30年4月1日にリニューアルオープンしたそうで、以前より若干充実しているような気がした。ここでは特別展での展示を含め個人的には以下を含め様々な発見があった。
1. 吾野地区の一部が、秩父地域から原市場などとの経済圏でのつながりを通して飯能地域として発展させることを望んだ
2. 吾野地域での多くの獅子舞、一部は浦山地域の獅子舞の系統であること
3. 吾野駅近くの自然にできた石灰岩の洞窟・岩殿観音窟:関東3大岩殿観音のひとつ
4. 八王子城で豊臣秀吉に滅ばされたゆかりの方の墓が近くの能仁寺にあること
5. 彰義隊から振武軍そして飯能戦争の経緯
6. 帝王切開術発祥の地記念碑序幕記念切手の発売
1については、吾野地域の古い道標などの記載内容の一部が理解できた
2については、改めて機会があれば鑑賞したい(蕎麦粒山から浦川大日堂に降りた時、大日堂の獅子舞は興味深いと聞いていた)と思った。
3については、従来より奥武蔵の石灰岩地域に興味があった
4については、2ヶ月ほど前に以下のように八王子城に行って、初めて北条氏の時代に興味を持っていたが、ここ飯能もつながりがあること。
太鼓曲輪尾根から八王子城山(日本100名城)周回
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1618487.html
その後4に関連し、近くの能仁寺の墓をお参りすることにした。お寺に入ると振武軍の石碑があった。また説明版などで、天覧山の名前の由来(愛宕山から羅漢山へ経て)、背後の黒田城跡などの認識を新たにした。
特に中山氏・黒田氏の墓碑については、帰宅後以下の説明でよく理解できた。
飯能歴史散歩>中山家範館
http://blog.livedoor.jp/kiseki612-hanno/archives/20259381.html
八王子城は城主北条氏照が小田原城に詰めており、その家臣団が留守部隊として守っていた。激しい上方軍の猛攻に対し、家範は見事な采配を見せ、その武者ぶりに感動した前田利家は助命の使者を送ったという。
だが家範は承知せず、照守、信吉の二子を城から脱出させたのち、尾張、悪蔵の二子と共に討死、妻は自害したという。
その武者ぶりを伝え聞いた徳川家康が、生き延びた照守、信吉を探し出して直臣とし、そこから旗本中山氏、水戸藩付家老中山氏、久留里藩黒田氏などが出ることになる。
6については、かつてこの日記に記載したが記念切手が昭和62年に発売されたことは知らなかった。また村人の先生に対する信頼感・当時の医者の教育状況などの説明もあり、興味深かった。
https://www.yamareco.com/modules/diary/238211-detail-154716
特別展が終わっても、機会を見て再訪したい。お勧めです:入場無料
入口には特別展のポスターが木のパネルに貼られて置いてありました。最近ファブラボでレーザーカッターで表札を作成したことがあります。文字の色などからこのパネルの表題もこれで加工したものかと感じた。
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