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早速出発である。谷間に光が差してくるのは遅い。最初は着かれず離れず登っていく。7時45分半山寺、8時25分天門窪に着いた。
中国人の人たちは、ビニール製や布製のバックを両肩に掛けたり、登山用の杖に荷物をからげて肩掛けするなど、思い思いに登っていく。山登りに慣れた身からすると、両手がふさがれて登っていくのは何とも奇妙な感じがする。もっとも、石段をひたすら上っていくのには、これであまり支障がないのだろうかと、ついつい考えてしまう。
そこから、天都峰への登りは、さらに数えきれない石段をひたすら上っていく。天都峰（1,864ｍ）には、9時25分に登りついた。
天都峰は、蓮花峰、光明頂とともに、黄山の三大主峰に数え上げられる。天気が良すぎて雲海こそないが、聞きしに勝る景観である。
山というのは、どこか宗教心を呼び起こす威厳さがある。黄山にも最盛期に千人以上の僧がいたという。一つひとつの峰に、一つひとつの奇岩、巨石に伝説の存在を思わせる名前がついているのは良いとして、これだけ若い登山客が増えているのだから、絵地図の案内図しかないのは、頂けない。
近代登山は、科学的精神の上に花開いてきた。大学生が絵地図片手に、老人に似た岩はどこだ、ここは魚が田螺を食べようとしているところだ、亀の背中に蛇がいて今にも躍りかかろうとしているのはあれだなどと、わいわい騒いでばかりしていても、しかたあるまい。
自然を慈しみ、科学的な眼で自然に親しむ精神をもつ若者がもう少しいてもいいのでないか。日本風景論を著した明治の人、志賀重昂にでもなった気分で大いに悲憤慷慨した。
天都峰から元の道に復帰し、10時20分玉屏楼に到着。ここまで距離にして7.5�劼澄�ここで、昼食をとることにしたが、程君は12時10分の出発時間を確認すると、どこともなくどこかに行ってしまった。お昼代は、2.5元、日本円で３３０円程度だった。
玉屏楼の少し手前に、名高い迎客松があった。黄山の松は、岩の隙間にしっかりと根を張り、枝ぶりはたおやかでいて、たくましい。人民大会堂の安徽の間にも鉄絵といって、鉄で描かれているものがあるそうだ。留学先の学校のそばの食堂の壁に描かれていた松もこれだ。
午後1時10分に黄山最高峰の蓮花峰（1,860m ）に登り、更に光明頂に行く。そこから振り返ると、2つの峰がまた素晴らしい。西海、後海の峰々も、また千変万化の景観を見せる。落日で有名な排雲亭経由で北海に向かう。
午後3時45分、黄山賓館北海に着いた。ゆったりとした気分で、落日を楽しむ。
翌朝、獅子峰の清涼台で日の出を待つ。清涼台こそ黄山で日の出や雲海を眺める最上の場所なのだ。中国人は早起きだから、もうたくさんの人が集まっていた。素晴らしい日の出だった。猴子観海が朝日に照らされていた。
麓の賓館で買った「黄山」の大型のフルカラーの解説書に載っていた松谷庵の翡翠池の写真が気に入って、今日はほとんど人の行かない松谷庵の方に下りてみることにする。往復20�劼箸△襪�ら、一日遊ぶのにはもってこいだ。
朝7時に北海賓館を出発した。程君も昨晩はどこで過ごしたのだろう、時間通りやってきた。松谷庵へは、彼もあまり行ったことないようだった。さしづめ、今日は私がリーダー役である。
石畳の道とはいえ、鬱蒼とした森の山道である。左右の奇岩には、相変わらずの小夢筆生花とか、駱駝峰の老虎馱羊とか、宝塔峰の三尊大仏とか、名前がついているのだった。8時15分三道亭の河原に着いた。天気は快晴の上、河原には清冽な水が流れ、心地よい。
9時には松谷庵に着いた。なんだか初夏という感じだが、せみ時雨に身を包まれると、夏であることを悟る。
松谷庵は、もともと宋代に松谷草堂として建てられたが、明代にお寺になったという。窓の少ない漆喰の塗られた建物は、門が固く閉ざされていて、誰何する気にはなれなかった。
近くの翡翠池にでかける。澄みきった淵に誘われて、ドブンと飛び込んで何度か泳いだ。程君もすっかり打ち解けて、一緒に泳ぐ。岩に大きく「佛」と刻まれているのが、いかにも中国らしい。白い岩の上で体を乾かしで、松谷庵に戻り少し早めの昼を一緒に食べる。
ここまでくると、天然のままの自然があった。淵の魚は人影に逃げないし、セミだって飛んで逃げていかないのだった。
12時15分に松谷庵を出発、1時に三道亭、2時55分には北海に戻ってきた。帰路の途中に、これから行こうと心に決めていた九華山から来たという一向に出会って、無性にうれしかった。この道は九華山につながっていたのだ。
4時半ごろから激しい夕立に見舞われたが、再び夕日を拝むことができた。
黄山最後の日も、日の出を楽しむ。好天が続く幸いに天に感謝したい面持ちである。
今日は、始信峰から雲谷寺への道をたどり麓の温泉に下る。賓館を早めに出たおかげで、始信峰の切り立つ岩肌が朝日に照らされ絶景を見ることができた。
午前中の透きとおった空気と澄みきった光があらゆるものの輪郭を鮮やかにし、松と巨石の組み合わせの妙を一層見事なものにしている。
探松海と聳える石笋峰が息をのむ景観を作り出している。山肌から湧き出るように千変万化する雲の流れが醸し出す墨絵の世界とは趣の違った、線の太さ、力強さを感じさせる山水画の世界である。途中、程君のお勧めで皮蓮による。ここもなかなかの景色だ。
麓の温泉まで帰り着くと、にぎやかなものだ。将来ロープウェーがかかるという計画があるという。もう、何をかいわんやである。
この3日間、程君はつかず離れず道案内をしてくれて、最適なコースをたどることができた。彼は、人の多いところでは食べ物も、飲み物も口にしないなど、非常に慎重に行動していた。もっとも、松谷庵に行った日だけは、往復20�劼竜�離だし、彼の村の領分から外れるので、私と2人だけだったこともあって気楽に行動をともにした。昼食もこちらのおごりで口にした。
農民の生活もだいぶんよくなってきたのではと、話の水を向けると、はっきりとした口調で農民はやだといった。第一に医療保険がない。病気したら、近所や人民公社から借りるしかない。第二に年金がない。老いぼれれば、子どもに頼るほかはない。黄山の養老院は、立派だが、市長以上の党幹部のための養老施設だという。農民は嫌だという理由は、実に具体的だった。
程君に約束どおり謝礼を渡そうとすると、言いにくそうに話を切り出してきた。屯渓の帰郷華僑商店に素晴らしいミシンが140元で出ているのを、同じく山案内をしているお姉さんが見つけたらしい。だが、それを買うには外貨兌換券があと50元足らないという。
外貨兌換券というのは、当時中国政府が外貨管理のために発行していた紙幣で、私が留学した年の4月から流通していた。外貨の裏付けがある紙幣として外国製品や国産のテレビなど手に入りにくい製品などが買えたのだった。
この3日間の付き合いで程君一家にいささか情が移ったこともあるが、彼の頼みを承知した。すると、ものの1時間もしないうちに村の知り合いから40元の金を工面してきた。残りの10元は3日間の報酬である。
受けっとったお金をあとで数えてみると、ガイド料1日3元の約束どおり、人民元で41元ピッタリ持ってきていたのだった。みやげに黄山の深山に産するという漢方薬の「霊芝」をくれた。律義なものだ。彼のこれからの人生の幸運と幸せを静かに思った。
素敵な思い出、井上靖か誰かのエッセイを読むようでした。
以前抱いていた中国への印象の中の一コマのようで、興味深く拝見しました。
山の名前、美しいですね
老人の昔話に付き合っていただき、ありがとうございます。
天気に恵まれ山水の世界に遊んだ3日間でした。
当時の中国は、開放改革政策が始まったころで、社会が大きく変わっていく兆しが見られる一方、戦後のベビーブーム時代の人間には懐かしさを感じさせるところもありました。いつの世も変わらないと思いますが、一生懸命に生きようとする人々の姿に共感を覚えることも少なくありませんでした。
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