残暑の9月、体調を崩し始めた母。浴槽を一人でまたげなくなり、入浴の介助が必要になった。
たらちねの母を洗へり 長月は熟れる果実のような夜に
9月下旬入院が決まり、頻繁に病院に通う日々が始まった。面会は5時まで。時間も決められて、付き添いもできない。二日に一度無理を言って時間休をとり母に会いに車を走らせる。
はろばろと午後の日をゆく東北道 穏やかに今日も母に会いけり
車椅子を押して短い散歩。廊下の突き当たりにロビーがあって、いつも人気がない。ひだまりのロビーで、二人で短い時間を過ごす日々。とりたてて話すこともなく、庭の花を眺めていたり。
ただここに二人でいることの静けさよ 幼子の如く花の名を聞く
10月下旬には退院の見通しが立ち、ほっと一安心していた。だが11月に入り突然の誤嚥。駆けつけてみれば点滴と酸素吸入をしている母に驚きと激しい不安。やがて肺炎、心不全と、暗闇に向かって階段を落ちるように容体が悪化し、病院から帰宅するのも辛くなった。さよならもありがとうも言えないうちに母の意識は遠のいていく。
11月15日午前4時、病院から電話あり。病室についたときには母の呼吸はもうか細い。手を握って小さく母の名を呼び続けた。4時55分、母は静かに息を引き取った。
古き良き世のアルバムを閉じるごとく たらちねの母死にたまひけり
初雪となりし奥羽の山々よ 群青の空に 母を焼くのだ
大空の船形山に夕日落ちて 燃える大地となりにけるかな
大正11年11月3日生。享年90歳。昭和を生きた一人の日本人女性がその無名の生涯を閉じた。
生まれて初めて、私は、母のために泣いた。
kiyoshiさんも、お母さんもお疲れ様でした
ゆっくりお休みください。
araigengaさん、ありがとう。
今は、たくさん眠りたいです。ありがとう。
kiyoshiさん
日記を読んで泣きました。
なぜ、大切な人と別れがあるんでしょう。
私の母も何度か「このまま死ぬのでは・・・」と言う状況になりましたが、
持ち直し、今はほとんど寝たきりですが、どうにか元気です。
いつか別れる時がくると、毎日覚悟しながら生活しています。
でも、本当はずっと生きていて欲しいですよね。
kiyoshiさん、我慢せず一杯泣いて下さいね。
一杯お母さんのこと思ってあげて下さいね。
お母さん、幸せだったと思いますよ。
kiyoshiさんお気持ち良く解りますよ、
自宅でお袋が息をしていないので救急車を呼んだら、
主治医のいる病院でなく違う病院へ連れていかましたが、すでに亡くなっていましたよ、
その後が大変でした過去の診断の書類がないので変死扱いで、検察官が見にきましたよ、その間はお袋は病院の慰安室でしたよ、
その時の、お袋は明治生まれの年齢は91歳です、病院長と主治医のいる病院長と電話連絡し何とか穏便にと話がまとまりましたが、
その間の慰安室では自然と涙がでましたよ、今迄の自分を犠牲にしてきたのは何だったのかと、
10数年間目が離せずに見てきたのは無になった、ただ後悔はなかった、私にとってはこの世でただ一人の母親だったから、
本当に最後まで面倒をかけさせられたが、今思えばあの時が一番充実していたかもと、
kiyoshiさんいつかはお別れの時が来ます、これは避け用もありませんよ、後は静かに送ってあげて下さい、
mantenmomoさん、naiden46さん、おはようございます。
暖かいお言葉ありがとうございます。お二人のご苦労と悲しみに比べれば、母は大往生でしたし、穏やかな最後でしたので、気持ちはシンプルです。長男ですので様々なことが今も続いておりますが、いずれはと覚悟のこと。
悲しみは悲しみとして、生きていくばかりですね。
母のように大往生したいものです。
お言葉本当にありがとうございました。
mantenmomoさんのお母様、お元気でいらっしゃいますように、心からお祈り申し上げます。
kiyoshiさん、お疲れさまでした。
私も福島の母のもとに、何度も通いました。でも、間際に会えず、最後まで親不孝な息子でした。
母親には借りを返すことは、到底できません。
母から学んだことは、大きすぎます。
それらのことを、せめてしっかり覚えて、生きて行こうと思ってきました。
kiyoshiさんは、最後のひとときを、ここまで一緒にすごされたのだから、素晴らしかったと思います。
お母様は幸せだったと思います。
胸の中に、しっかり思い出として生きていきますね。
kiyoshiさん、お疲れ様でした。
お母様への優しいお気持ちは十分に通じていると思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
tanigawaさん、お言葉ありがとうございます。
結婚後わずか10年あまりで、父はなくなりました。女手一つで私たち姉弟を育て、大学にまでやってくれました。感謝の気持ちはあふれるばかりです。
東北大震災の日、夜中にたどり着いた家の、崩れ落ちた寝室の隅っこで布団をかぶって私を待っていた母でした。体もちゃんと動かないのに、落ちた食器の半分もひろって片付けていたのですよ。
そのあと妻が東京から戻るまで、5日間、私は母とともに暮らしました。母を暖め、母の食べるものを探しに街にでました。残った灯油でストーブを焚き、母の部屋に一緒に暮らしました。戦後の匂いの残るあの日々に、母が私たちにしてくれたように…
二年前に倒れたときもやはり心臓でした。古ぼけた心臓には二度目はなかったのです。
凡庸な人生でありましたし、どなたに誇るものでもありません。ただただ、唯一人の母親でありました。
K-HINOさん、お悔やみありがとうございます。
山に行くときに、いつも「どの山に行くの?岩手山?」っていつも聞いてきた母でした。「早く帰っておいでよ」って言われたから、晩御飯に間に合うようにって、いつも帰りは急ぎました。もう急がなくてもいいね…
元気になったらまたヤマレコアップしますよ。
いつかお母様がご自宅へ戻られ、気の向くままに過ごされる日を…と考えておりました。そう考えると残念でなりません。
ただ、kiyoshiさんはしっかり親孝行なさいましたよ。何度も病院に出向かれたこと、きっとお母様も心強かったことと思います。
最後のお別れは群青の空のもと。お母様とkiyoshiさんのお気持ちがあらわれたのだと思います。
いつかまたそのような空のもとで、船形山を歩きましょうね。
yamaya7さん、ありがとうございます。
みなさんの励ましで少し元気がでてきました。
今日は、冷たい雨が夕方にはみぞれになっていましたね。北の寒気がひとときは緩むので、そのときが高い山の狙い目ですよ。きっと美しい光景が見られると思います。群青の空、17日はまさにそんな一日でしたね。
日記を拝見しました。
>11月15日午前4時、病院から電話あり。病室についたときには母の呼吸はもうか細い。手を握って小さく母の名を呼び続けた。4時55分、母は息を引き取った。
状況が7年前に他界した山登り好きの親父の最期と酷似していて、こみ上げるモノがありました。
私も残された母親にだけはせめて親孝行しようとは思ってますが、やっぱり山に行く限り心配かけてるのかな?と思ってます。
いつか、ゆっくりお話しながらkiyoshiさんと一緒に東北の山に登りたいです。
(慰めの言葉が無いコメントでスミマセン)
hirokiさん、おはようございます。
コメントありがとう。
山に行くときは、やっぱり心配してるでしょうが、母親は子供の心配をするのが仕事みたいなものだから。
お互いに気を付けて山歩きをしましょう、特に冬は。
東北の山歩き、嬉しいお申し出ですね。
親子登山みたいになっちゃいますよ。
でもいつか、きっと。
kiyoshiさん、心からお悔やみ申し上げます。
黒伏へ同行させていただいた今月初め、断崖の上での休憩時、震災の日の話題になりましたが、kiyoshiさんは多くを語ろうとはしませんでした。
あの時、山々を眺めながら、お母様とすごした5日間、そしてお母様のご容体を思っていらしたのですね。
寒くそして不自由な5日間だったと思いますが、とても大きな親孝行ができた時間だったのではないでしょうか。
年下の、しかも知り合って間もない私が生意気を言ってすいません。
でもkiyoshiさんの文面からは、お母様への感謝の気持ちが脈々と伝わってきました。
そして船形山へ夕日が落ちる情景も、目に浮かびます。
娘さんがお嫁に行かれた日はヤマレコに存在していなかった私ですが、今日は少しkiyoshiさんのお気持ちを思う仲間とさせてください。
kamadamさん、こんばんは
お言葉ありがとうございます。初七日も過ぎ、月曜から仕事も行っておりましたので、気持ちは穏やかです。母は長生きしましたし、静かな最後を看取ることができましたので、気持ちの整理はつきました。
母と別れるのは一生に一度のこと。その時のこと、そして私の気持を、ヤマレコの日記をお借りして記しました。短歌や俳句を読むのは嫌いではありませんが、私自身歌を詠む習慣はないので、ぎこちない作品になりました。母も笑っているでしょう。斎藤茂吉の「死にたまふ母」が頭にリフレーンしておりました。偉大な歌人の歌を今また読み直しています。
現在進行形で、親の介護をなさっておられる方がヤマレコでも沢山おられます。尊敬の念でいっぱいになります。私などはなにほどの苦労もしていないので恥ずかしいばかり。
kamadamさんの優しいお言葉、胸に響きました。
また、ヤマレコでお会いしましょう。
昭和の激動を生き抜いた母様でしたね。
今日、帰宅時に聞いたラジオでの会話。
GNP…元気に・長生き・ポロリ・だそうです。
色んな思い出があります母さんでしょうね。
でも、私の母みたいに60で倒れて16年の寝たきりから思えばまさにGNPですね。
合唱
お袋、果物食べたいって、何回か柿とかリンゴとか剥いてもっていってやったんだけど、最後はね、桃の缶詰が一番って…それも一口食べてもう沢山って言われて、残った缶詰私が全部食べちゃいましたよ。昔は桃缶って高級品だったね、寝込んだ時にしか食えない。お袋の頭の中では昭和も平成もみんな同じで、どっかで時間が止まってたね。
ポッカリ穴があいたみたいで、これからどうしようかなって思っています。
少し遅れてほとんど同じ様な状況になっておりましたので、kiyoshiさんのお母様のご逝去は知りませんでした。
遅れましたが、改めてご冥福をお祈り申し上げます。
私も母親を喪って初めて母親の大切さを実感しました。
もっと親孝行すれば良かったと後悔ばかりが残ります。
誰でも通る道ですが、この空虚な気持は時間が回復してくれるのでしょうね。
SONEさん、なんと申し上げていいかわかりません。SONEさんのブログ読んでまた泣けてきました。
そうですね、もっと母のためにできることはたくさんありました。その後悔はやはりずっと残るのだと思います。
きっと世の中の母と子はみんなそのようにお別れするのでしょうね。
今はお辛い気持ちでしょうが、静かな日々がきっと癒してくれると思います。お父さんのお世話もあるので、本当に大変だと思いますが、どうぞ御身大切になさってくださいね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する