いま、日本のシルクロードについて朧ながら、理解を始めた自分がいるのですが、まだ本当に朧。色々解っている人から見れば、子供の遊びに見える筈。
取りあえず
・・インフラ整備の時系列により繭・生糸の輸送ルートが次々に変わっていくのがややこしいですが、
・主な生産地は、上野国(群馬)、信濃国(長野)、武蔵国(埼玉・東京・神奈川)、岩代国(西福島)、甲斐国(山梨)
・集散地、富岡製糸場、利根川の河岸、八王子 →横浜港
こんなことが解ってきた
(写真1)のように、川が支流を集めるように全てが横浜に注ぎ込んだのである
群馬生涯学習センター・八王子と関東絹の道より転載
http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/sangyo/ryutu-gyo/hatiouji16/hatiouji16.htm
この手の僕の初記録を読むとこんなことが書いてあった
> ■浜街道?神奈川往還?横浜港から輸出?
> ★なにかとんでもないものに首を突っ込んでしまった感あり。。
俺のシルクロードがこんなに地味なわけがない★神奈川(三増峠・小倉山)★自転車パスハン 2014年12月14日(日)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-559854.html
まさにシルクロードは”とんでもないもの”だった。。
実際、横浜港からの輸出はもの凄かったので、生糸のために道路網が整備され鉄道が敷かれた。流通の三種の神器”橋梁・隧道・切通し”もシルクロードが優先された。
前進の江戸五街道や大山道を利用すれば安価で道路整備ができますね。そういう意味では開港以来明治期の東海道(生糸の大産地と直結していない)の整備は遅れたのではないか?
むしろ東海道の脇街道、矢倉沢往還のほうが利用価値が高かったのではないだろうか
上の自身の記録に
> 東京・神奈川の山域で生産された絹は、八王子に集められ、
> そこから江戸に向かうルート(現R20・青梅街道)と、
> 横浜港(1859年開港)へ向かう輸出ルート(R16・八王子街道)があり、
> 今回歩いたルートは、生産地→八王子への集配ルート(笑)になるようです
とあるが、この推測は今からすれば甘すぎると思う。
そもそも生産されたのは絹ではなく、その前段階の繭であるから、生糸に加工しなければ。
記録の厚木の清川煤ヶ谷で生産された繭は、半原越えで半原に運ぶ(ここで生糸になる)煤ヶ谷と半原が相思相愛なのは明らかで正しい
しかし半原から三増峠を経由し八王子に集められるいうのは早合点だろう。今思えば稚拙だ
半原で生糸になったのなら八王子商人は気にせずに、半原から横浜港に輸送すればよい。生糸(撚糸)の出来を八王子から見に来させればいい。
とすれば輸送ルートは峠越えのない厚木に南下させ、厚木から矢倉沢往還・大山道(現R246)に乗せ、浜街道(現R16)と交わるところで横浜港に向かう!
地図を開けば、長津田駅、南町田駅付近から浜街道に合流できる。
そうすれば、清川煤ヶ谷村(繭)ー半原越えで半原(生糸加工)ー厚木(宿場)ー相模川の渡しー大山道(矢倉沢往還)で長津田ー浜街道に合流し横浜港へ
こんなルートが成立するのではないか?
では生産地が宮ヶ瀬村ならどうか
清川宮ヶ瀬村(繭)ー宮ヶ瀬越えで半原(生糸加工) ー以下同ルート
・・やはり長津田あたりに超貴重な辻があるような気がする(爆)
さていま22:00ですが自転車パスハン(峠越え)について
人はなぜ山に登るのか
この命題はカビが生えるくらい言いつくされてきたことでしょう
人はなぜ峠を越えるのか
これは簡単ですね。人がA町からB町へ行きたいからです
理由は、仕事・通学・帰省・流通・観光などでしょう
ここに自転車パスハンという遊びがある。帰りは電車を使うことも多い。まさに遊び。昔の人は往復しなければならなかった。
峠越えは危険であり環境の変化であり、「詠嘆」である
修験の道を縦走すれば尾根から下りコルに差し掛かる。
そこに十字路があった。小仏峠と書いてある。当然標高は両側の山より低い。
A町からBに行く峠は、かの甲州道中である。小仏峠である
”小仏峠”という三文字でいったい何冊の本が書けるのだろう
まさに小仏峠であって、俳句以前に三文字で表現できるのだから説明する気も失せる。
さらに”峠”と省すればどうか。一昼夜は語りつくせるのではないか?
こういう気持ちは山登りの人よりも、寧ろ街道野郎に解ってもらえると思う
現代は小仏峠は座を譲り、大垂水峠をトラックが越えてゆく
では現代のドライバーが大垂水峠の山坂を使い、八王子から相模湖に抜けた瞬間はどうなのか。
やはり「詠嘆」ではないのか
相模湖に来たのだなあ。ではないか?
小田原から箱根峠を越して三島に降りたときはどうか
では峠ではなく房総の(移動のための)尾根線や丹沢を歩いて繋いでA町からB町に出た時はどうか
「和田浦集落にきたのだなあ」「渋沢集落に降りたのだなあ」ではないか?
富岡製糸場に着く前の中山峠は小さいながらやはり峠だった
それまで平坦だったからこの登りは気合が入った
頂上は切通し、下れば利根川支流の渓谷に橋。
それもいいじゃなイカ!? 平成のおいらには橋も隧道も切通しもあるんだぜ!!
←後半gdgdのシメw
写真2は相模川。ここに渡しがありました。だいたい電車の橋のそば(栄えている)に渡しがあり電車の開通後に廃止されました
写真3 土山峠 清川の煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村(水没)を結んでいました。V字が印象的な峠らしい峠だ
おはようございます。
シルクロードは良く分からないけれど、繭で運ぶより糸にした状態の方がコンパクトで扱いやすそうですね。紡ぐ人件費もへきちの方が安そう。
茹でるときに倒れる程の臭いが出るとか、どこかで読んだような、今の時代なら住宅地では苦情物。だとしたら、仕事の選べない僻地の貧乏人にやらせる!等と想像してみました。でも、昔はどこもひらけてたかも(^^)
どうもです
繭に中には蛹(さなぎ)がはいっていますから
匂うかもですねーw
大量ですからね(・・
ただ化学兵器じゃないので臭せーだけかなとw
明治の海外輸出は、生糸もしくは撚糸(ねんし)でしたが、蚕種(さんしゅ)=蚕そのもの も多く出していたようです
日本の蚕アドバイザーが欧州に渡っていたかもしれません。
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