~
明治38 99.9% 4000t
明治39 99.9%
明治40 99.9%
明治41 99.9%
明治42 100.0%
明治43 100.0%
明治44 100.0%
大正01 100.0% 10000t
~
大正13 87% 23000t
大正14 83%
昭和01 82%
昭和02 78%
昭和03 75%
昭和04 73% 38000t
~
昭和45 60% 75t
昭和46 20% 47t
~
この”%”は何でしょう。これは日本が外国に輸出した”生糸”の横浜港のシェアなんです。
省略していますが横浜開港(1859)~大正元年(1911)までの52年間、生糸の輸出は横浜港から!! ほぼ100%なんです(すげー
”t”は生糸の輸出総数重量です。軽い生糸ですからすごい量だったのでしょう
横浜港はその後、徐々にシェアを減らし昭和46年(1971年)に50%を割り込み、
実に112年に渡った首位の座を明け渡したのであります
えーとシェアの相手先は・・
100%神戸港!!
なぜ大正元年までの52年間、横浜にシェアを奪われていたのかはわかりませんが、(生産地が遠い、西は国内需要に対応?)
大正13年から急激にシェアを伸ばしていますね
※大正12年のデータが手に入らなかった。
大正12年
・・大正12年
大正十二年九月一日
相模湾の北西部を震源とする大地震が関東を襲った。
そう関東大震災である。
10万5千人が死亡、全壊家屋13万・焼失家屋45万。
数日してライフラインが回復すると(っていっても支給レベルだろうが)、その一週間後の9月7日に貿易関係者が横浜に集まり今後の蚕糸貿易について、会議をしている
その心境は理解できる。荒廃の中でも何かやろうと!
推測
横浜港に集まる生糸は、その矛先を変え神戸港に集積されたのでないか?
ほの香曰く横浜がんばれという”神戸シルクロード”があった”のではないか
横浜港に流れのように集まっていた鉄道のシルクロードを、単純に大正12年のインフラに載せ名古屋に転送すればいい。
しかし東海道線は御殿場廻りも熱海廻りも深刻な被害を被っている
うう。では生産地から神戸に送り込まなくてはならないだろう。。
信州の岡谷・諏訪はどうか?中央線で名古屋に送るか?
信州全体は中央線にまとめて名古屋ー神戸の鉄道輸送で何とかなりそうだ。。
八王子はどうか?
やはり中央線を逆流して名古屋か?
群馬はどうか?高崎線が死んでいる。では中山道?
混乱の東京に出す意味がない。
とするとやはり逆に行くか?信越線で長野へ。碓氷峠を越せば、中央線に接続でき名古屋
んん?碓氷峠を生糸が逆遡上って。。 (・∀・)
神奈川はどうか
被災地につき今日明日のご飯。。暫く蚕は飼わねえ。。うんうん
南房総
鋸山の丁場(石切り場)が地震で崩れてそれどころじゃないよ
そう言えば、生糸が国の主要輸出産業から滑り落ちたのは大正?
ほのかさんの興味は尽きないですね。ご参考です。横浜、神戸について触れていました。
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/summit01/yokohama/koizumi/koizumi.htm
お問い合わせの大正、また昭和の初期は、国を挙げての生糸輸出・全盛期です!!
生糸は、対米英蘭戦争で輸出が激減(つうかアメリカ貿易が遮断され国内の食べ物生産を優先した)、その後に養蚕は復活して昭和40年頃まで、頑張っていたらしいです。
主要産業(の一つから)滑り落ちたのは昭和40年以降かと思います
資料ありがとうです(・∀・)
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する