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学生時代は年間100日くらいは山で過ごしており、夏冬の長い休みには1週間以上は普通、時には10日以上も山に入っていました。就職すると長い休みは取れないだろうから、長い山行もこれが最後か・・・と寂しく思ったものです。
その卒業山行の日程は、次のようなものでした。
1日目:
新宿から夜行列車で出発、辰野で飯田線に乗り換えて平岡駅からバスで遠山郷まで行き、長い林道歩きで北又渡、易老渡を経て西沢渡で幕営
2日目:
西沢渡から聖岳への尾根を登り小聖岳を越えた辺りで幕営
3日目:
聖岳と聖兎のコルの間、標高2,800m付近で幕営
4日目:
風が収まるのを待って兎岳の避難小屋まで
5日目:
兎岳、大沢山、百間洞を経て赤石を越え大聖平で幕営
6日目:
大聖平から小渋川の広河原小屋
7日目:
今は無き小渋温泉まで小渋川の河原を歩き、あとは林道で大鹿村の大河原へ
この山行は色々と思い出深く、今でも様々なシーンを覚えています。
初日の長いアプローチに閉口し、翌日はトレースが無くて参った聖岳への登り。急激な天候悪化で聖兎のコルまでも行けず、痩せ尾根の雪を削って不安定な場所にテントを張り、夜中に吹き積もる雪にテントが潰されないように雪かきした事。固くクラストした雪にアイゼンが小気味よく効き、快晴の青空に白くて丸い山体が印象的だった中森丸山。腰を越えるラッセルに大汗かいた百間洞。大聖平から広河原への下りでルートミスして、荒川側の急なルンゼをアンザイレンして下った事。冷たいというより痛かった小渋川での徒渉の繰り返し。辛いことも多かったけど、どれを取っても懐かしく思いされます。
それと、帰ってきた翌々日は卒業式で、日焼けしてボロボロの顔を見たゼミの先生に「もうすぐ会社に入るのに、その顔はなんだ!社会人としての自覚を持て」と怒られて、入社日までに回復するのか少し焦ったものでした。
卒業旅行は全ての人と言うわけでは無いでしょうが、かなりの人が出かけ、海外に行く人も多いようですね。
私が学生だった40年前は、海外旅行なんてのは人生のうちで新婚旅行で1回、あと何かでもう一回行ければ良い方なんて思っていました。裕福でなかったというのもあるけど、時代的に大方の人はそんな感じだったのではないでしょうか。今は費用も安くて学生でも手軽に行けるから、良い時代になったものです。
休日にしても、就職した当時は週休二日制は一部の大企業のみ、隔週二日制がせいぜいで、夏休みや5月の連休に有給休暇を使って、やっと1週間の休みが取れるという具合。それでも、まだ恵まれていた方だったのかも知れません。
今は仕事を辞めて毎日が日曜日なので、行こうと思えば何日でも山に行くことは出来るけど体力的に3日が限界。
全ての日程で山小屋の個室を取り、荷物を担いでくれるポーターを雇って、自分で持つのは水と昼飯だけ。そんな大名登山なら1週間でも大丈夫だけど、これは叶うことの無い夢物語でしょうね。
guchiさん、こんにちは!
急にやたらノスタルジックなテーマで、一体どうしたんだ?なんて思ったら、やっぱり山の話しでしたか!
はい、私も思います。若い時の体力、気力って、今は想像もつかないです。(ということは、ひどく老いている現実を見つめないと
卒業旅行で海外へ・・・十数年前ですけど、我家の娘どもも、もうそんな具合でしたけど、guchiさん同様、貧しかった私どもの時代では話しにも登りませんでしたね。ヨーロッパアルプスに行こうなんて、出来もしない目標立てて、シベリア鉄道の運賃(9万5千円)稼ぐってバイトに明け暮れた時代でした。
イーグルさん、こんにちは。
少し前に、テレビで最近の卒業旅行の行く先みたいなのをやっていて、そういえば自分の操業旅行は山だったと思い出したのです。
ヨーロッパアルプスに行くのにシベリア鉄道で、というはありましたよね。
私もそれに憧れたクチです。
海外旅行に手が届くようになったのはバブルの頃でしょうか。
1ドルが230円くらいの時代になって、私でも行けるようになったように思います。
それでも高かったですけどね。
それでが今では10万でヨーロッパやアメリカに行けるツアーもある
私らが若かった時代には想像もつかなかったですよね。
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