脳性麻痺の著者(1933.5.15〜2013.6.3)が、障害者の子を道連れに親が心中を図り、命を取り留めた親への減刑嘆願や無罪判決に異を唱え、養護学校義務化や改正優生保護法に対して先鋭的な戦いに向かいます。
私が小学校に入ったばかりのころは聾の子や青い目をした精薄の子がクラスに居ました。
ある日青い目の子は朝礼の時突如大人に連れ去られ、それきり会うこともなかったです。彼の家は大きな家の裏の壁に立てかけられた掘っ立て小屋でした。
それでも母校には特殊学級があり、そこの通う生徒ともよく遊びました。何しろそこには大きな積み木など魅力的な遊具がありましたから。
今は特殊学級はなくなり遠く離れたところの養護学校に通うのが標準のようです。
山に行くと「え、こんなところに」と思える場所に老人ホームや介護施設があります。
著者は普通学級に進むか養護学校に進むかの選択権は本人になると主張します。
著者は親に本人の意思とかかわりなく就学免除の手続きを取られ、義務教育を受けられませんでした。
現在は既に進行中ですが胎児検診により障害の疑いがある胎児を堕胎する権利を親が持ちます。これは障害者の存在を根本から否定することであり、著者自身がいつ殺されてもおかしくない状況になると畏怖します。
障害児を持った親の苦労を慮っても、命を絶たれた障害児の無念に対しては誰も語らない。
以前、私は病院で検査中に造影剤によるアナフィラキシーショックで死にかけました。
検査医からER担当に引き継がれる際、「付き添いは居るのか。家族に連絡をするべきではないか。」と医師が緊張した声で引継ぎを行っていました。「おいおいおい全部聞こえているよ。医者が緊張しては患者も緊張するよ。」体は動かせなくなり、会話もできなくなりましたが、耳はしっかり聞こえ、会話は当然理解できたのです。
障害のある人でも同じです。コミュニケーションが全く取れなくても、すべてを理解している場合もあるのです。特に脳性麻痺は運動能力が奪われる場合があっても知的能力が奪われることはまれなそうです。
ただ、以前に読んだ双頭の姉妹の本にも書かれていましたが、本書でもCP者が精薄者を下に見ている記述があります。結局差別の根源は頭のいい悪いなのかなと思います。
実際に本書でも障害者とはCP者を念頭に置いて記述されています。
話が脇にずれましたが、障害者と健常者は物理的に出来るだけ共有の場で暮らすのが、よいと思います。
borav64mさん、こんばんは!
タイトルをみて、真っ先に相模原の事件を思い出しました。
高度成長期以降に少しは進展してきた障碍者への施策が… ”いざなぎ”越えと言われるも格差拡大で大半は景気を実感するどころか苦しくなっているし、物価はじわじわ上がるしで… 今後はあちこちで厳しくなっていきそうです。
また物理的な障碍でなく、知的障害にどう考えて対応したら良いか? 親世代の介護に当たる人が、うちも含めて今後急増しそうですし、さらに将来には自身の被介護をどうするか?も漠然と不安を抱えています。
綺麗事を言うだけは簡単ですが、植松被告に「間違ってるぞ」と論破できるだけの持ち合わせもなくて、うーん…となってしまいました。
ーーーーー
ご紹介の本と合わせて、うち的備忘メモです。。。
○AERA:相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”
https://dot.asahi.com/dot/2018072600003.html?page=1
○映画.com:こんな夜更けにバナナかよ
https://eiga.com/movie/89090/
「人と違う。」ことに気が付いたときから、その社会的位置を知り、それにふさわしい態度で暮らさなければいけない。
障害者らしく、強姦被害者らしく、重病患者らしく、と周囲の人間が望む。
生まれたときから人の手を借りて生活してきた人にとり、それが普通。
何故卑屈にならなくてはならない。
手を貸して当然。
子供のころから身近に障害者がいれば、それが普通であり、どう手を貸せばよいかも習得できるのではいでしょうか。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する