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[我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、
魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル 個人ハカリノ姿 グルグルマワル]
(以下ネタばれのため未読の方はお控えください ↓↓↓)
仲間が息絶え、ひとりで最期を迎える覚悟をしていたとはいえ、
こんなに冷静沈着に受け止められるものだろうか?
不謹慎な言い方になってしまうが、
そういう意味で彼の遺書はお見事という外ない。
この若さで卓越した文章力も脱帽もの。
小学5年に奥多摩の御岳に登って以来、登山に目覚め
中学でアルプス縦走、一ノ倉沢、本格的な冬山の単独へとエスカレート。
そんな彼にとって、厳冬期の北アルプス主脈縦走は
予期しない豪雨と猛風雪に遭わなければ
きっと成功していたのだろうと思うと残念でならない。
[全身硬ッテ力ナシ. 何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決ス オカアサン アナタノヤサシサニ タダカンシャ.]
この辺りは涙なくしては読むことができない。
まだ20代であり、これからも色々な山に挑戦できたであろうし
親孝行も満足にできていないと良心の呵責もあっただろうに、
母親への感謝の念だけを綴っている。
[西糸ヤニ米代借リ、3升分、]
ここで彼の遺書は終わっている。
今まで借りたものがよほど気になっていたのだろう。
最後の読点「、」があるところが何とも哀しい。
借りたものを全部書こうとしたが、ここで力尽きたのか。。。
加藤文太郎の『単独行』も既に読んだが
私は松濤明のほうに親近感を覚えた。
【追記 2/28】
「3升分、」のところで力尽きたかと昨日書いたが
本編に続く‘遭難の概要’で驚くべき事実が判明。
なんと彼はこの手記を書いた後、自分の体には所持せずに
借りたカメラやフィルムと共にご丁寧に梱包して
比較的濡れにくく、人に発見され易い岩陰に置いたという。
凍傷を負い硬直の始まった体で、何故そんなことができたのだろう!
しかも、一緒に遭難した友人の尻の下に
細い木の枝が沢山敷かれていたのも発見された。
見上げるととても手が届くとは思えない場所の枝が
無数に折られていたという。
傷ついた友を少しでも暖かく、という優しい配慮らしい。
その後、仲間がこの遺書を発見し読み上げる中
仲間のみならず巡査部長や医師、役人達も皆
涙なくしては聞いていられなかった。
人間は最期にその真価が問われるというが
こんなにも美しく強く逝った人を、私は知らない。
同じ状況下にあったら、自分はそこまでできるのか?と
深く考えさせられる。
自分も両方とも読みました…彼等の登った山のほとんどを自分も登っているので昔の登山の歴史を知る資料として読んでいて為になったし共感出来ました。もし彼等が今の登山道具で挑んでいたのならば死なないですんだのではと思わずにはいられません。本を読む前までの彼等の印象はまったく山を恐れていなくて恐怖など感じない超人だと思っていましたが…自分と同じ様に不安を抱えて登っているのには意外でした。今はメスナーのナンガを読んでいます!!
tetete さん
コメントありがとうございます。
仰る通り、(天候だけでなく)装備もですよね。
現在のような装備がない時代に
あんな大縦走を完遂してしまうなんて!
二人とも、真のAlleinganger です。
装備で思い出しましたが…
加藤文太郎が、どこかの山の雪上に一晩寝ていて
人が通りかかるや否や「夜が明けたか」と言って
ムクムク起きてきたというくだり。
超人としか思えません。
松濤明氏の事はあかね書房出版の安川茂雄著の「近代日本登山史」に詳しく載っていました、登山の開拓時代の人はみな凄いですね、
遺書と言えばainakarenさんの日記の「山に祈る」の中でも書きましたが、
昭和40年3月北大山岳部のの沢田義一さんの大和書房出版の「雪の遺書」の中に
「お母さんお父さんごめんなさい。一足先に行かせてもらうだけです」雪崩に遭いその中で必死に脱出しようとし、
ついに諦め遺書を狭い雪の中の空間で書いた遺稿集です、
松濤明氏とは比べることは出来ませんが、やはり死を覚悟した人の遺書はそれなりに感動しますね、
naiden46 さん
コメントありがとうございます。
たった今、追記したところですが
本当に精神力の強い人だったことがわかります。
松濤さんの遺書にも同じような記述がありました。
[一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。
何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ]
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