これだけ素晴らしいのだから、福島県の山に興味をもつ全ての登山愛好家に読んで欲しいところですが、残念ながら福島県内でしか購入することができません。様々な事情があるとは思いますが、福島県外の多くの方に周知するという点でも是非とも福島県以外のい店舗でも扱って欲しいと思っていたところです。
さて、そんな素晴らしい「新・うつくしま百名山」ですが、今回「新・うつくしま百名山」の選出からもれた南相馬市の「懸ノ森」を歩きながら、思ったことを述べたいと思います。
いわゆる「日本百名山」は、私にとっては「深田百名山」であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。
しかし、「あおもり110山」や「やまがた百名山」、そして今回の「新・うつくしま百名山」などに見られる地域の百名山シリーズは、とても大きな意味があると個人的には思っています。
地域の百名山シリーズは、里山を多く含みます。里山は、地元の方の献身的な整備と登る方の存在が車の両輪のように作用し、どちらも欠けてはならない存在だと思うのです。むしろ地域とのつながりなんかは有名な山よりも里山の方が強く感じるのではないかと思います。地域の「百名山」であることで、地元の方しか知らないような無名の素晴らしい山を、その地域の外の人たち、さらに他県などの他の地域の人々にその存在を周知してもらって、多くの方に登ってもらいながら山の価値を認識してもらうこと、そしてそれが地域の方々の誇りや里山の維持につながっていくと思います。このように、地域の「百名山」の意義はとても大きいと思っています。
実は、今回登った「懸の森」は、旧うつくしくま百名山でした。しかし、残念ながら、ここは「新・うつくしま百名山」の選出からは、漏れてしまっています。もちろん、選出時の状況では、「登山ができなくなった」山、放射線量からして危険な山の1つだったのかもしれません。あえて「百名山」から外したのは、仕方のない事情だったかもしれません。
しかし、福島原発事故から10年以上が経過し、実際に今回、誰とも会わない静かなこの山を歩いてみて、あの事故にもかかわらず、地元の方の努力で、素晴らしい登山道や素晴らしい自然が維持(復活)されていました。この素晴らしい登山道を歩くことで、「山とそこに住んでいる人々との深いかかわり合い」を強く感じました。
「うつくしま百名山」の編集に携わった故田部井淳子さんは、「山々との触れ合いの第一歩は、まず長い間培ってきた山と地域、山とそこに住んでいる人々との深いかかわり合いを今一度思い起こしていただくことです。(以下略)」と述べられており、今回の新版の巻頭でも、この言葉が再録されています。
このような故田部井さんが述べられるような「山とそこに済んでいる人々との深いかかわり合い」は、懸ノ森において特に実感しうるものでした。今後、多くの方が地元へ帰還される中で、地域と山のつながりが深くなっていくことも期待できるのではないでしょうか。(多くの方が登ることが、山を通じて、地域の「復興」につながるという副次的効果も期待できる)
もちろん、山が「百名山」である必要はありません。ただ、今後、地域の方と多くの登山者が手を組んでいくためにも、「百名山」であることの影響は無視できないと思います。ご存じのとおり、皆さんの記録を読むと「百名山」であることは、多くの方にとって登山をする大きなモチベーションとなっていることは紛れもない事実でしょう。逆に「百名山」から漏れることは、地元以外の方にとっては無名の山と化してしまうなどによって登山者を減少させてしまうことにもなりかねません。
そもそも、百名山の「100」という数字に厳密な意味はなく、数字の一例としての意味に過ぎません。その数は「90」でもよいと思うし、場合によっては120だって200だってよいと思います。
「新・うつくしま百名山」では、様々な議論の末で選出方針が決まったと思います。もちろん、浜通りの山々をどのように扱うか、ぴったり100にするか否かについても含め、充実した議論をされたのではないかと思います。
しかし、このような素晴らしい里山を後生に引き継いでいくためにも、あらためて選考委員の皆さんを中心にご議論いただき、次回の「うつくしま百名山」では、是非とも、「山」を入れ替えるのではなく、今回選出から入れ替えてしまった多くの浜通りの山々をつけ加えて頂くこと、そして近いうちに、追補版として多くの里山が「新・うつくしま百名山」に復活も含め選出されることを、福島県外のいち素人登山者として願っております。
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