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山スキー合宿をすることになったある日、先輩が神戸の登山用品店に連れて行ってくれた。靴は、今はいている登山靴のかかとに、スキーの金具のワイヤーが引っかかるように細い紐状の厚手の皮を釘で張り付けたもので代用した。スキー板は、最も安い合板製のもので、滑走面が若干加工されており、スキー板の両側面に30センチぐらいの長さの金属のエッジがマイナスビスで止められたものを手に入れた。固い雪面を滑ると、すぐにエッジが傷み、スキーツアーから帰ってくるといつも誰かが修理しているような代物であった。ビンディングは、カンダハーで、前皮をつけて靴を固定し、後ろはワイヤーで固定するというもので、セイフティ―の機構などは一切ないものだ。山スキーの登りには欠かせないシールは、アザラシの皮ではなく、綿の生地にナイロン製の植毛面がついているものである。スットクは、合竹で、新雪に強いように大きめのリングをつけたものを使用した。(勤めてからは、万が一衝撃で折れても、応急処置がしやすいよう、トンキン竹製のものにした。)ヤッケは当時まだ綿製のものを使っていたので、汗が凍って背中の部分がごわついたものだ。しばらくしてナイロン製のものを購入したが、ゴアテックス素材のものは、ずーと後になってからだ。オーバーシューズは、ロングスパッツなど普及していなくて、もっこりしたものだった。
スキー合宿の拠点は、同じ大学の山岳部のヒュッテが笹ヶ峰にあったよしみで、その連絡事務所となっていた民宿のご主人が経営する杉野沢木工所の作業小屋の2階を貸してもらった。この民宿は、集落の中心の宮前にあり、作業小屋も道を隔てたところにあった。米も分けていただいたが、自家用のもので大変おいしく、農薬を使っていないものだということだった。お風呂は、近所の銭湯に行った。作業小屋の一回は吹きさらしのうえ、2階も窓は隙間だらけで、実に寒かった記憶がある。
初めの数日間はスキー場で、スキーの滑り方の手ほどきを受け、外輪山のアタックに出かけることになった。星明りの深夜3時には起き出して、林間コースのよく締まった雪面をシールを効かして登っていき、スキー場の第1ゲレンデを経て、第2ゲレンデから五八木にいたり、ようやく日の出を拝むことになる。体もすっかり温まり、ほっとした気分で日の出を見つめた。
ここからは、池の峰のコルを通って笹ヶ峰に出るルートとそれを迂回して牧門に出るルートがあるが、池の峰のコルのルートを行く。最初のアッタックの日、池の峰のコルを過ぎてすぐに尾根にとりつき藪の多さにすっかり根をあげたので、2回目は慎重にルートを選んで登っていく。このあたりは、足首を少しばかり超える程度の雪で、スキーでのラッセルも気になるほどのことはない。
外輪山の三田原のダテカンバの大斜面を斜めに登って行っては、キックターンを繰り返す。やがて外輪山の稜線まで出る。ここまで来て、初めて妙高山の本峰が眼前に大きく見える。スキーの滑降テクニックは、ボーゲンもおぼつかない状態で、とてもクリスチャニアで華麗に回る芸当はできないので、下りは大斜滑降にキックターンの繰り返しだ。それでも爽快に滑って、スキーが急にうまくなったように感じたものだ。
ある時、ガスがかかり雪面の凹凸がわからず、急斜面を勢いよく降りてきたのはいいが、急に平坦になっていることに気づくのが遅れて、前方に大きく転び、足だけが登山靴からすっぽり抜けて、スキー板が登山靴をつけて滑って行ってしまったという笑い話のようなことも起こったのである。
また、ある年は、大学の先輩諸氏の伝で笹ヶ峰の営林署の小屋を借りることができたこともあった。あらかじめ秋に食料・燃料等をボッカしておけば、火打山にアタックに行けるというわけだ。スキーを履いてブナ林の原生林を進み、七曲りの急登はスキーを担いで登る。オオシラビソのタンネ帯を過ぎてダケカンバの林になると富士見平。そこから高谷池ヒュッテに出て、稜線を行けば山頂である。しかし私たちがアタックした年は雪が多く、天候にも恵まれなかったので、高谷池ヒュッテどまりだった。
10年後にスキー合宿に参加させてもらったときは、雪が少ない年で、正月に火打山に登頂することができた。高谷池ヒュッテからの朝焼けの火打山が忘れられない。
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