地図が大好きな子供にとって、地図帳の最初に等高線の説明のために挿入されている地形・場所ほど印象に残るものはない。開聞岳も、等高線の説明に使われる地形・場所の一つでないだろうか。湖と海岸線の間際に等高線が同心円状に描かれている山は、容易にその姿を想像できるからだ。
地図好きな子どもの例にもれず、小学生2年生の時には姉の地図帳を拝借して、わら半紙に九州の地形を写した記憶がある。県ごとに色分けした。長崎県は銀色、宮崎県は黄緑色だっただろうか。その出来具合によっぽど満足したのか、今でもはっきりと記憶に残っている。ただ残念なことに、その地図帳は、等高線の説明に日光の男体山と中禅寺湖が使われていたように思う。それでも、開聞岳は、大人になって九州にいったら、是が非でも自分の目で確かめてみたい山となった。
その機会は、大学に入学して間もなく訪れた。当時は、大学紛争が真っ盛りの頃で、入学しても半年ほど授業がなかった。そこで、高校生の時愛読した下村湖人の小説「次郎物語」の主人公の無計画の計画よろしく九州一周の貧乏旅行を思いついたというわけである。そのため、まず資金稼ぎに、中華料理屋で2週間ぐらいアルバイトをした。
京都南ICの入り口近くの道路に立った時は、さすがに心細い気になったが、2日をかけてどうにかヒッチハイクで小倉までいった。そこからは、足の向くまま気の向くまま、18日間にわたって旅をした。ボタ山地帯に出かけてみたり、志賀島の金印発見の場所に行ったり、長崎の平和祈念像、柳川の北原白秋の生家、都井岬の野生馬や幸島のサルなど興味の赴くままに巡った。「話し相手になれや」と夜行列車の切符を買ってきた元自衛官のおじさんや都会に出ている息子の姿を思い出すからと自宅に招いてくれたおばさんとの出会いなど、それはまた、人情を知る旅でもあった。その旅の合間に、阿蘇山、久住山、開聞岳、高千穂峰と登った。阿蘇山には、8日目に阿蘇の最高峰の高岳に登り、草千里まで歩いていって夕日を眺めた。久住山には次の日、やまなみハイウェイの牧の戸峠から登り、バスで別府に出た。高千穂峰は、15日目に霧島神宮の方から登り、えびの高原に向かった。いずれも、旅のおまけの猛烈登山である。今はやりのトレランのようなものだ。
開聞岳には、13日目に登った。前泊地は、桜島。朝早く船で鹿児島に出て、国鉄に乗り、日本の最南端の鉄道駅の西大山駅で降りる。長崎鼻に着いた頃は昼ごろだった。そこからは、青い海と海岸線の先に円錐形の均整のとれた山の姿を見通すことができた。その姿は思い描いていた以上に、すらっとしたもので、薩摩富士の名前に恥じないものであった。長崎鼻からは、海岸線の道を歩いて、麓の登山口まで歩く。松原が続く登山口についたのが午後3時ごろ。近くの店でジュースを2本買い、荷物を預けてナップサック姿になり、急ぎ足で登ることにした。
ここからの眺めは、長崎鼻とはうって変わって、期待を裏切るものだった。開聞岳の下半分はふっくら膨れあがり、とてもすらっとした姿とは言えない上、上半分はガスがかかって山容を十分見ることができなかった。山頂に登るには、山腹をらせん状にぐるりと右回りにのぼっていくという、珍しいものである。砂地の松林を抜けると、次第にのぼりとなる。走るようにして山頂に出ると、そこは3メートル先も見えぬ濃いガスが立ち込めていた。ぼっと佇んでいると、足元からポンポンポンと動力船の音がかすかに聞こえてきた。その時初めて開聞岳に登ったという気分になった。晴れていれば、屋久島も見えるはずだ。見えたら見えたで、きっと宮之浦岳に登りたくなるだろうなと考えながら、下り始める。麓まで下りきる頃には、もう夕闇が迫ってきていた。松林越しに人家の光が点々と見え始めたとき、長旅のなせるわざか、人恋しさがわっと胸にこみ上げてきた。今日の泊まりは、指宿のユースホステルとしよう。
(昭和44年9月17日から10月4日にかけての旅ノートより)
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