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この本は、題名から受ける印象と違って、ヤマメや岩魚といった渓流に棲む魚を釣る面白さを主テーマとはしていない。人が生活を営む山里での釣りを通して、戦後の高度経済成長の影響を被らざるを得なかった山や川や村人の姿を描いている。山里の暮らしの価値を哲学的な目で考察しようとする視点が新鮮で、強い印象を受けたのだった。
以下は、上州の神流川流域から峠を越えて秩父の小鹿野に出、そこから両神山を経て荒川の支流の中津川・中双里に出る、40年ほど前の記録である。
かつて峠は人の生活にとって掛け替えのない親しみのある存在であった。もちろん、人や物の往来が頻繁で、峠の茶屋の一つもある峠もあれば、その地域に住む人々だけが往来した生活の峠もあった。
ところが、戦後、森林開発が進み、林道が整備されるとともに、人々の生活の移動手段が車になるにつれて高規格の生活道路が整備されていった。その結果、主要な峠という峠には新たな道がつき、かつての峠道は荒れ、すっかり用無しになってしまった。生活圏を結ぶ多くの峠は、地図上からも忘れ去られてしまった。
ふるさとの山は未だあれども、人々が愛着を感じるふるさとの峠はなくなってしまったのである。
11月初旬、早朝上野駅から高崎行きの列車で新町へ。そこからバスに乗り換えて、神流川中流域の万場まで行く。万場は、信州に通じる十国峠街道の宿場町であったところだ。国道沿いにしばらく進み、小平から尾根道を登っていく。
山の中にサイレンの音が響き渡る。正午を告げる音のようだ。山の中腹に一軒農家というより山家といった風情の建物が見える。老夫婦が長年切り開いてきた畑も見える。ちょうど、ここが林道とおぼしき山道と峠道との分かれになっていた。老主人は、患いの後遺症か少し足が悪いようだった。この環境で暮らしていくのは、さぞ骨が折れ、大変なことだろう。
ここから坂丸峠(880m)まで巨大な送電線の鉄柱を建設している人たちに出会っただけで、他にだれにも会わなかった。峠から一旦西沢を下り、中平集落に出る。茅ノ坂峠(757m)への登りは、麓の集落で聞いていた通りすっかり廃道と化していて、もう藪漕ぎ同然である。尾根に尾根にとまわって、いささか強引に登っていったら、どうやら峠らしきところに出た。そこからは、かなり整備された杉林の作業道を下っていくと、小鹿野の日向に下りつくことができた。
総じて、この地域の山の南西斜面は林業開発がいきわたっており、林道整備との兼ね合いもあるのか、道は比較的良いようである。しかし、その道は、決して尾根のたわんだところを越えて、山向こうの村とを結ぶ昔ながらの生活の道ではない。植林の対象になった地域だけが通行可能なのだ。
最終バスは、4時26分。通りがかりの車に便乗して一足早く間明平の民宿三山(さやま)荘に4時10分に着くことができた。今夜はここにお世話になることにした。
次の日は、間明平の宿を6時過ぎには出て、納宮の登山口に戻り、そこからかなり急な尾根道を登っていって、楢尾沢峠から日向大谷へ向かう。9時頃には会所に着いた。黄葉の進む道をたどり、清滝小屋を経て、正午前には両神山の山頂に立つことができた。山頂からは、たたなづく青垣の山々を望むことができた。山頂からの下りは、梵天尾根をたどり、梵天の頭を経て、白井差峠から中双里に下りた。ここから秩父鉄道の三峰口まではバスである。
【山行記録】
昭和54年11月3日
6時53分上野駅発、8時45分に新町駅着。ここからバスで神流川の万場に、10時10分着。11時小平、12時35分に坂丸峠。西沢を下り中平の集落を通り、15時茅ノ坂峠着。日向から車に便乗し16時10分に三山荘着
11月4日
6時15分宿発、7時5分納宮の登山口、8時07分楢尾沢峠、9時5分会所、10時30分清滝小屋、11時50分両神山山頂、14時5分梵天の頭、14時55分白井差峠、16時中双里(なかそうり)着。中双里からバスで三峰口へ。
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