![]() |
![]() |
![]() |
2年前の同じ季節に彼と飯豊山の石ころび沢を滑り降りた爽快さを思い出して、心が動いた。もうかれこれ45年も前の話である。彼が残していたフィールドノートの記録や写真、地図で、ワンチャンスの天候を生かして登った思い出の山旅を回想してみた。
連休初日の朝、上野駅に集合。山形の酒田に着いたのは、もう夕方だった。この時間では、乗り合いバスはもうないので、駅からタクシーを飛ばして湯の台鉱泉にある国民宿舎鳥海山荘に向かった。宿泊客は意外なことに我々2名以外にわずか一人。なんだか拍子抜けがした。東北の山では、まだまだ春は遠いのだろう。
次の日、宿で朝食を済ませて、8時に出立した。麓の木々は、芽吹きの季節には程遠く、わずかに水芭蕉の花がほころんでいた。
開拓登山口から酒田南高校のヒュッテがある尾根筋に上がり、夏道沿いに横堂、限界杉、西物見へと進む。曇り空、気温は高めだが、時々小雨がぱらつく天候だ。天気もさえないと自然とゆっくりのペースとなり、滝の小屋に着いたのは、お昼を回っていた。小屋で身支度を整えて、スキーを担いで宿河原からあざみ坂に差し掛かる辺りまで登り、大雪原を気持ちよく、ひと滑りした。
3日目は、心配したとおり、雨の天気となった。結構風も強い。午後にちょっとスキーを持ち出してみたが、この天候では楽しめたものではない。早々に引き上げる。
4日目も、また雨模様。頂上近くは、雪やみぞれになっていると予想できたから、同宿の2パーティー4人の面々もすっかりあきらめ顔だ。ここは天気の回復を待つしかないと頭の中では分かっているのだが、勤めの身の悲しさ、心は焦る。残された時間は、明日一日だけなのだった。幸い、ラジオの気象通報によれば、夜半から天気は回復しそうだ。それを楽しみに寝入る。
翌朝、起きてみれば、今回の山行で初めて見る青空。朝8時に山小屋を出発する。先行する3人のパーティーも先を急いでいるのか、かなりの軽装備だ。我々も同様だった。
雪面は締まっているので、ショートスパッツで十分だった。スキーの板はアタック用のザックの肩ベルトと背中の間にエックス型にして担ぎ、アイゼンを履き、ストックを使って登る。
振り返ると大雪原の斜面の下に河原宿の小屋の赤い屋根。日本海も望める好天に足取りは軽い。ただ、天気の荒れた後の山の最上部は、がちがちに凍りついているに違いないから、細心の注意が必要だと、今回ピッケルを持ってこなかったことに一抹の不安が一瞬頭をよぎる。
スキーを安全な場所にデポして、あざみ坂の急登を上り切り、外輪山の伏拝岳に出ると、鳥海山の全貌が目に飛び込んできた。やはり岩に雪というか氷がびっしり張り付いている。
中央火口丘の新山(2236m)が異様な迫力で迫ってくる。それもそのはず、2年前に噴煙、降灰、泥流と小規模ながら噴火爆発を起こしているのだ。一方、稲倉岳へと延びる外輪山の内側の千蛇谷は雪ですっぽり埋もれて実に雄大である。行者岳から外輪山の最高峰七高山(2230m)に向かう。さすがに吹く風は冷たいが、毛糸の帽子をかぶるほどでもなかった。
新山へは、七高山から少し戻って、千蛇谷に下りる。鳥海山大物忌神社の本殿は、この谷にあるのだが、休むことなく山頂に向かう。ごつごつした岩をよじ登っていって新山に着いたのは、午前11時だった。外輪山越しに日本海まで見えたのには、感激ひとしおであった。
帰りは、スキーをつければ、快調そのものだ。一息に滑って行って、午後1時前には山小屋まで戻ってきてしまった。
麓の鳥海山荘には、午後4時前に着いた。明日はお互い仕事である。あたふたと、その夜の夜行列車で東京に戻ったのだった。
麓で採った根まがり竹で作った味噌汁が美味であったというのが、友人のいつもの語り草である。
(昭和51年(1976年)4月29日〜5月3日の記録から)
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する