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地図の片隅に、「明治44年測量、昭和32年要部修正測量、昭和42年資料修正、昭和43年11月発行」と記されている。昭和40年代には、陸地測量部の白黒の地図を若干修正したものが、まだ販売、使用されていたのだ。ここで言う陸地測量部というのは、現在の国土地理院の前身にあたる機関で、日本陸軍参謀本部の外局として国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたっていた機関だ。
この「山上ヶ嶽」の地図は、地図記号も明治42年式のまま、活字のフォントも違っており、山名などの地名は縦書きのところは良いにしても、多くは右書きである。当時すでに主流となっていた三色刷りや4色刷りの地図になれた者にとっては、はなはだ使い勝手の悪いものであった。ちなみに、同じく手元にある木曽駒ケ岳のある「赤穂」の白黒版の地図の定価は、60円と記載されているから、そんな値段で売られていたのだろう。
その地図に踏破したルートが赤鉛筆で書き加えられている。それを眺めていたら、なつかしい思い出がよみがえってきた。以下、その思い出を書いてみよう。
京都駅から近鉄に乗り、吉野線の下市口駅で下車、バスで洞川に向かう。メンバーは、農学部の高知県出身の先輩をリーダーに新入りなど総勢5人。
その日はあいにくの雨模様。緑若葉の中を五代松鍾乳洞から法力峠を越えて、山上辻まで上がった。道は、私の予想と違って極めて良く、運動靴でもよいくらいに思えた。
山上辻に山小屋があったが、我々はテント泊である。テント場は小屋から5分ぐらいのところにあり、テントがようやく3張りほどは張れそうな大きさだった。
ご飯は、飯盒で炊いた。高校時代からホエブスを使ってコッヘルで炊くのに慣れていたから、ちょっと奇妙な気がした。飯盒は、一度に4合炊ける。それを2人で翌朝の分も残らず平らげてしまったことを鮮明に覚えている。
2日目は、天気も回復。朝食を済ませて、空身で稲村ヶ岳(1726m)を往復する。稲村ヶ岳は、山上ヶ岳と同様に永い間女人禁制の山だったが、戦後に解禁されていた。山頂からの眺望は、大普賢岳、弥山など奥駆けの峰々が見渡せて実に気持ちがいい。
急坂を登り切って山上ヶ岳(1719m)の頂に着くころに、また雨がぱらついてきて心配したが、幸い雨は一過性のものだった。
くだんの農学部の先輩は、さほど山岳宗教には関心がないらしそうだったが、植物の話となると話は別で、歩きながら懇切丁寧に樹木の解説をしてくれた。この時、教えられた樹木の中で印象に残っているのは、ヒメシャラの樹である。ヒメシャラは、ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木で、明るい赤褐色のつるっとした樹肌が特徴的で、比較的この山域には多い。高知の山中にはもっと大きなヒメシャラがあると、話はいつしかお国自慢となった。
それに、休憩時やテント場では、大きなビニール袋を取り出して、何やら昆虫らしきもの採集をしていたから、足取りはいたってのんびりペースである。
小笹の宿は、水が豊富で、テントサイトも広く、テント泊には最適に思えた。大普賢岳(1780m)から七曜岳にかけて鎖やはしごがかけてあるところがあったが、わざわざ行場などには寄る考えはなかったから、さほどスリルを感じることもなく、かえって変化に富んでいて楽しかった。
この夜は、行者還の宿の避難小屋泊り。ところが、夜、メンバーの一人が発熱を訴えた。ちょっとした緊急事態発生である。この時は、リーダーの決断で八剣山方面へ行く予定を変更して、急遽上北山村の天ヶ瀬に下りることになった。普通の場合なら、無理して熱のあるまま動かしてよいか、沈殿したらいいか、迷うところだが、今回は偶々下山しやすい便利なところだったので助かった。
次の日は、皆何事もなかったかのように、ゆっくりとしたペースで天ヶ瀬に下り、バスで大和上市に出て帰京したのだった。
(山行記録)昭和44年(1969年)5月17日〜19日
第1日目 洞川→五代松鍾乳洞→法力峠→山上辻 (テント泊)
第2日目 稲村ヶ岳往復→山上ヶ岳→小笹の宿→大普賢岳→七曜岳→行者還の宿(小屋泊)
第3日目 行者還の宿→上北山村・天ケ瀬
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