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そんな時代、48歳の1997年の秋に大学時代の山友二人から突然山行きの誘いを受けた。
聞けば、彼らは数年前大菩薩山系の湯ノ沢峠付近でばったり出会い、それをきっかけに年に1度ほど一緒に山に登っていたようだ。ヤマレコ友達のkichichanが言うには、大菩薩山系で出会ったときM君はまだキスリングを愛用していたらしい。彼らが巻機山に登った時も、ツエルト泊だったというから、ふたりとも結構昔の精神を維持していたようだ。それでも今回は、さすがに年齢的に小屋泊まりがよさそうだということになったらしい。
お誘いは、紅葉の季節の10月に山小屋に泊まって奥秩父の金峰山に登ろうということだった。こちらとしては、山小屋泊まりの山行など30歳代も絶えてなかった出来事である。慌てて、昔の山道具を取り出してきて、参加することにした。
山へのアプローチも、青春時代の夜行列車利用ではなく、早朝新宿発の特急利用だ。具体的には、特急あずさで小渕沢まで行き、小海線で信濃川上駅にいく計画だ。
それにしても信濃川上とは、なつかしい。十文字峠を越えて秩父に抜けた時も、御座山に登った時も西沢渓谷から東沢を遡行し甲武信岳から梓山に下りた時も、この駅が拠点だった。
10月18日の土曜日、私とM君は八王子駅から特急に乗り、小淵沢から信濃川上へ。当時は、信濃川上駅から到着列車に接続する乗り合いのマイクロバスがあったようで、川端下の金峰山荘(廻り目平キャンプ場)まで行くことができた。
急いで登山の準備を整えると、11時30分だった。秋の日は短い。結構ハイペースで歩いていって、12時55分に中ノ沢出合に着いた。そこまで、落葉松などの広葉樹の木々が黄葉に輝いていたのが印象深い
そこから尾根に取り付き、奥秩父らしい雰囲気の道を登って行って、14時40分に金峰山小屋に着いた。日の入りまでは、まだ2時間強あるので、そのまま頂上へ向かう。頂上から甲斐駒が岳をはじめ南アルプスの山々の展望が見事だったのが印象に残っている。
この季節、日の入りは5時少し回ったぐらい。山梨県側の麓の金櫻神社のご神体として崇められている五丈岩に登ることもなく、金峰山小屋に引き返したのが、4時半だった。
どうも、ここでひと悶着あったようだ。山小屋を予約をするという習慣がなかった我々は、受付で食事付きの宿泊は無理、素泊まりなら何とかしようと言われてしまった。紅葉の季節、当然小屋泊まりの人も多いのだから、小屋の対応も頷ける。実際この日も、小屋の中は団体のツアー客で混んでいた。
同行の岳友から、最近は昔の少人数グループの登山と違ってツアースタイルで山登りをする人が増えているのだと解説され、こちらは目からうろこである。確かに、登山ツアーは、事前の調べも旅行手配も仲間とのいざこざも無縁だから当世風なのかとも思うが、私などはなんだか物足りない。
M君の回想では、私があれこれ小屋番に頼み込んで、何とか夕飯にありつけたという。ご飯は2杯目のお代わりはできたが、3杯目はおひつが空になって食べられなかったというのだから、かなり記憶がしっかりしている。一方、kichichanの記憶は少し違っていて、別棟の冬季小屋のような土間の場所でラーメンを食べたという。こちらは、夕食か朝食か記憶が判然としない。きっと朝食は自分たちで済ませたのだろう。
次の日起きると、外はかなり冷え込んでいたが、日の出とともに6時に小屋を出発する。再び金峰山の頂上には向かわず、千代の吹上、砂払の頭と先を急ぎ、7時10分には大日大岩に着いて、一息入れた。そんな具合だから、紅葉・黄葉の美しい富士見平には9時15分には着いてしまった。この時間なら瑞牆山も登れそうなのだが、この頃はピークハンターとしての精神をすっかり失っていたのだろか、いや次の日の仕事のことが気になっていたのだろうか、大休止してそのまま下山を続けることになった。
M君の述懐は「瑞牆はさぼった」というものだから、今でもちょっとした後悔があるのかもしれない。9時50分には瑞牆山荘に、そこから更に一般道を歩いて増富温泉へ。須玉町営の温泉センターで汗を流し、のんびりと昼飯もそこで済ませて、家路に就いたのだった。
如何にも、40代の仕事に忙殺されていた団塊の世代の登山らしい話である。
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