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ニッコウキスゲの群生地から火災の発生場所のガボッチョの方面を見下ろしてみると、一面緑の草原が広がっている。夏の午後遅く、夕方には一雨来そうな空模様。風の吹き渡る草原は、草木の葉裏が銀色にきらめき、まるで、緑の海原の波のようであった。
私は、思わず、かつて見られたであろう木曽の風越山の「風越青嵐」の景色を思った。
木曽谷の山である風越山(1596m)は、谷からの南風の強風がこの山にあたって山を越えていくから、その山名が付いたいう。この辺りは、昔から木曽馬の産地である。短い背丈で、強靭で、かつ粗食に耐える木曽馬は、古くから山間地農耕馬として各地の供給されていた。
そのため、風越山は、採草地として大いに利用された。春に火入れした草原は、初夏には芽吹き、夏には全山緑の草原になった。そこに風が吹き渡ると草木が波打ち、「風越青嵐」の風景となる。
江戸時代に木曽八景の一つとして、「御嶽の暮雪」、「寝覚の夜雨」、「棧の朝霞」などとともに「風越の晴嵐(青嵐)」が選ばれたのも、故なきことではない。
この、風越山の中腹には、平安・鎌倉時代に利用された木曽古道が通っていた。そこを多くの文人も超えたのだが、「手向にもむすびてゆかむ風越のすえ野の尾花穂に出るなり((夫木和歌集・源 顕仲)」という和歌が残されているのだから、その頃から木曽馬の飼育がおこなわれていたに違いない。
麓の集落の吉野地区では、「昭和10年代も約25軒位の家で木曽馬を飼育していた。一軒の家で平均四頭くらい飼っていたから全部で約100頭くらい飼育していた。(注1)」と言われている。
この景色は、昭和30年代まで見られたというが、やがて木曽馬の飼育がおこなわれなくなって、採草地の役割が失われるに従い、消えてしまった。それでも、8合目付近は風が強く木々が育たないので、今でもカヤトの丘と呼ばれる景観が広がっている。
私がこの山に登ったのは、2018年の8月だった。上松駅から歩いて、麓の吉野集落を通り、鷹鳥屋登山口から植林帯の急登の道をカヤトの丘まで登ると景観が開け、萩やオミナエシ、マツムシソウ、ツリガネニンジン、コオニユリが咲いていた。山頂近くの展望台からは中央アルプスの宝剣岳を雲の合間から見ることができた。帰路、宝剣岳から流れ来る滑川の方に下って、思わぬ渡渉を強いられたのも、思い出深い。
その時詠んだ短歌2首。
尾根道を息せき切らせ登り来ればカヤトの丘に小鬼百合咲けリ
夏の日の熱のこもれる岩に座り靴乾かせり清流渡りて
(参考資料注1) 木曽上松町吉野の歴史(中畑 朝次 中畑 竜太郎)
現在、アマゾンで、ペッパーバック版「木曾上松町吉野史」(井領 邦弘 編著 2022/12/14)を購入できる。
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