関東地方は暑い日になった。日曜日の朝7時過ぎから家の周囲の草取り。虫も多いので刺されないように厚手のジャージズボン、綿のTシャツの上にコーデュロイの長袖シャツ、頭にはタオルを巻き、露出した肌には虫除けを塗りたくって作業を始めた。正午過ぎまでおよそ5時間、途中一度の水分補給。ようやく作業が終わり、くたくたになって家の中に入った。
ところが、家に入ると体がおかしい。呼吸が荒くなり、脱力して立っていられない。「まずい、熱中症の症状だ」と思うものの、体がいうことをきかない。家族が出かけていて誰もいない2階に上がって倒れ込み、やっとの思いで汗でびっしょりの衣服をはぎ取る。冷蔵庫まではっていき、スポーツドリンクと冷茶をがぶ飲みして再びたおれこんだ。
すると今度は手といい、足といい、全身に痙攣。「水分を取り過ぎたためにミネラルが不足したな」と思いながら山行に持って行くための「芍薬甘草湯」を何とか胃に流し込んで、また、冷蔵庫まではっていき、これも山行のために保管してあった塩飴を口に放り込んだ。
扇風機のスイッチを入れて20分ほど体を冷やしながら横になっていると痙攣もおさまり、体調も普段の状態に戻ってきた。後で心拍数の記録を見ると、横になって休んでいてもこのときは150程度まで上がっている。(いつも心拍数や歩数などが分かるようにグッズを装着して生活している)150というと山で急登を登っている時と同じぐらいだった。
山に行くときは、衣服も通気性のよい、速乾性のものを着用し、水分もこまめに取り、塩飴をなめたり、ドライフルーツを口に放り込んだりしながら熱中症にならないように、あるいはシャリバテにならないように細心の注意を払っていたが、それと家のまわりでの作業とが結びつかなかった。
衣類も虫除けだけを考え綿の厚手のもの、通気性も悪く汗でびっしょりになっても着替えもせず作業を続ける。水分補給も5時間のうち1度だけ。炎天下の中で黙々と作業を続けた。
今、考えれば「何と愚かなことを」と思う。熱中症にならないようにするための十分な知識は持っていたし、そのための衣類や飲食物も保存してあった。にもかかわらず、作業前に「熱中症予防」という言葉は頭に浮かばなかった。
「使えない知識をどれだけ頭に詰め込んでも・・・」とあらためて実感。まあ、症状が出てからそれが熱中症だと気づいたことや、対処法については山行で得た知識が役立ちはしたものの、もし、意識がなくなっていたらそんなことはいっていられない。
今、教育界では「学力低下」が叫ばれ「学力の向上」が大きな課題となっている。わずかなりとも教育に携わっている私としては、この自分の体験を通してあらためて思うことがある。
私が子どもの頃は「学力=知識量」だった。だから必死で知識を頭に詰め込んだ。学校でもそういう教育がなされていた。しかし、時代を経て今ではこの方程式は成り立たない。今は「学力=知識量+知識の活用力」ということになるのだろうか。「持っている知識をいかに使って問題を解決したり、あたらしいことを創造したりできるか」が大きな要素なのだ。ところが、世の中ではまだまだ「学力=知識量」の方程式から抜け出せない人たちがたくさんいる。もちろん教育に携わっている人たちの中にもだ。
「使えない知識をどれだけ頭に詰め込んでいても・・・」なのである。今回の熱中症になった自分自身はまさにそれであり、実感を持って思い知らされたできごとだった。
>世の中ではまだまだ「学力=知識量」の方程式から抜け出せない人たちがたくさんいる。
今のテレビ番組に溢れているただ知識の量を競うだけの無意味なクイズ番組がその象徴のような気がしてしかたありません。
tabioさん
私もそのことを感じていました。確かに知識量も大切なのです。でも、それを使うためにはやはりいろいろな体験をしながらということになるのでしょうね。
わたしの熱中症もまさしく体験を通して・・・だったと思います。
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