山に登るとつい、富士山がみえるかなぁと探してしまうんだよね。さすがに北海道や九州のように明らかに見えないであろう場所ではそんなことはしないけどね。仲間に「富士山を愛でる心は日本人のDNAに組み込まれているんだろうな。」と言うと「それは違うでしょう・・・」と返事が返って来ちゃった。彼曰く、富士山を思うDNAが組み込まれているのは日本人すべてでは無く関東や東海など富士山の見える場所にいる人たちだけだそうだ。「そうかもね」と言いながらも「それって違うんじゃ無い?」と思わざるを得なかったんだ。
だって、我が家のかみさんは沖縄生まれ沖縄育ちだけれど一緒に山へ行くとやっぱり富士山を探すもの。でもまあ、何十年も関東で生活しているからかな?とも思うこともあるけどね。だけど、北海道で生活している息子の嫁さんは、生粋の北海道生まれ北海道育ちで、数年前初めて富士山の麓へ連れて行ったけど、やっぱり富士山は特別だったよ。
まあ、ずっと昔は日本全国では富士山を知らなかった人たちもたくさんいたのかもしれないけれど、今は映像や画像で見ているだろうし、学校で歌まで歌わされているなんてこともあるんだからなあ。富士山への思いは知らず知らずのうちにしみこんでいるよね。やっぱり富士山を探すのは、そして富士山が見えると心が沸き立つのは日本人のDNAなんじゃないのかなあ。
同じように、山へ登るとつい探してしまうのが槍ヶ岳。こいつは「山や」のDNAなのかな?槍ヶ岳が見えるとやっぱり心が沸き立ってしまう。僕だけか・・・?そんなこと無いよね。北アルプスあたりで話をするとみんな「あそこまで行くと槍が見えますよ」って話をするもの。「○○からの槍は素晴らしいですよ・・・」なんてね。
深田久弥が「日本百名山」の中で言ってたなあ。はっきり覚えていないけど「富士山と槍ヶ岳は日本の山の中で両極に位置する山だ」なんていうようなことを。僕もそう思うよ。
でもね、僕にとって富士山と槍ヶ岳の大きな違いは「富士山は見る山」で「槍ヶ岳は登る山」だってことなんだ。僕は富士山に登ろうとは思わない。今はね。槍ヶ岳は登りたくなって数年前に登ってしまったんだな。いつか富士山に登りたくなるのかもしれないけれど、今は眺めるだけでいい。いろいろな場所から、いろいろな角度から富士山を眺めて沸き立つ心を感じる時が幸せなんだよ。登ってしまったら、そこからは富士山の姿が見えないからね。
日本人としてのDNA 山やとしてのDNAなんて言ったけど、本当のところ、どうなんだろうね。
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