ある程度の年配で東京近郊に住んでいる山屋さんなら、この時間が何であるか判ると思います。今は無き、新宿駅発、普通長野行きの出発時間です。
1975年3月のダイヤ改正以前は、長野行きの出発時間は23時58分か59分だったと思いました。
【*追記:これは記憶違いで1974年8月も23時55分でした】
その列車には今の電車型の車両ではなく客車型の車両が使われており、染込んだ油の匂いがする木の床、文字通り網で出来ている網棚、狭いシートに垂直の背もたれ、これらは快適とは言い難かったけど、何とも味のある列車でした。
列車ドアも、レバーを手で握って開閉する手動式で、列車が動いていても開けられたりして、そんな所も良かったです。
夜行の普通長野行きは、奥秩父、南アルプス、八ヶ岳方面へ行くときには便利な列車でした。塩山や甲府には3時前の到着だから始発のバスには早いけど、2時間ほど駅で時間をつぶせば、夏のシーズンや連休には早朝の臨時のバスが出ていました。小淵沢では小海線の始発に接続、茅野は6時前なのでほぼ始発バスの時間、まさに登山者の為にあった列車で、若い頃は良く利用していました。
平日はさておき、中央線の夜行列車は休前日や夏休み期間には乗客はほとんどが登山者。混んでいる時はボックスシートは向かい合ってお互いに靴を脱いで足を伸ばして仮眠、その足元の床には新聞紙を敷いて寝ている人が居るような状態。こうした風景は普通長野行きだけでなく、松本や大町へ行くために乗る急行アルプスでも同様でした。
当然、そんな列車で熟睡できるはずはなく、山での初日は睡眠不足に悩まされたもので、混んだ列車で寝られるのも山の技術の一つ、なんて言われていました。
新宿駅から夜行列車に乗るときは、繁忙期はアルプス広場に列車ごとに並ぶことになっていて、発車時刻が近付いてくると駅員がホームへ誘導していました。みんな3、4時間くらい前からザックで順番取りをしておいて、西口のションベン横丁(今は思い出横丁と言ってますが)あたりへ飲みに行ったものです。
何かの都合で駅に着くのが遅くなり、長いザック列の後ろの方に並ぶようだと、また寝られないのかと憂鬱でした。
激混みの時は楽しんでいる余裕はないけど、ゆったり席が確保できる時の夜行列車の旅は好きでした。
夜行列車の窓辺に座って単調な線路の響きを聞きながら、遠くの街の明かりを眺めていると、そこに暮らしている見知らぬ人々の事が思い浮かび、何となく優しい気持ちになったり、これから向う山での日々に思いを巡らせているうちにウトウトと眠りに落ちて、時折ふと目を覚ますと、カンカンという踏み切りの警報機の音が闇の中から近付いて来て、そしてまた遠ざかって行く。そんなシーンの一つ一つが旅情だったのかも知れません。
夜行列車はほぼ無くなり、それに代わっているのが深夜バスですね。バスはシートが確保されており、一応リクライニングもするから夜行列車の狭い座席より寝やすいです。だけど、風情という面では列車には今一歩およばない気がします。
山に行くのが目的だから、移動の最中は風情よりは睡眠なのですけどね。
guchiさま
いい文章ですね。昔を思い出させていただき、何とも懐かしい気分に浸らせていただきました。ありがとうございました。
Atsumiyaさん
コメント有難うございます。
夜行列車は、昔から山をやっている人なら、誰しもが記憶に在る風景ですよね。
昔を懐かしんで回想に耽るのもイイものですが、我ながら少し年寄りくさいと思ったりもします。
もっとも、ジジイになったのも事実なのですけど・・・
guchi999さん、おはようございます。
白黒写真の上に、
アルプス広場、背負子、そして、くの字
どれも懐かしいです。
合コンで大騒ぎする連中の横を、都会では場違いな背負子やキスリング背負って、硬派気取りで闊歩する(?)心意気…。
そんな、新宿駅の風景が思い起こされます。
ありがとうございました。
kagayaki500さん、おはようございます。
山を終えて松本から夜行で帰ってくると、新宿で朝まで飲んでいて始発で帰る若者と一緒になり、先輩が
「ああいうのが、楽しいのかね。俺には判らん!」と呟いていました。
山に登る人は、同年代の若者と比べて、自分は硬派だという意識を持っている人が結構、いたと思います。
私も、そんな所があったけど、女の子と一緒の人達を見て『あれはあれで楽しそうだ』なんて思っていた半端者でした。
背負子やキスリングは全く見なくなりましたよね。
キスリングはさておき、荷物が多い時は背負子は楽で便利なのですけど、雨対策やパッキングが面倒だから、やっぱりザックの方が良いかな。
guchi999さん、こんにちは!
懐かしく、かつ、自然に情景が浮かんでくる素晴らしい文章に感嘆しました。
新宿発23時55分、懐かしいですね〜。韮崎駅で降りてから、増富行きの一番バスを待つ間の寒かったこと・・・。八王子から乗車しようとしたら満杯で、ホントに死にもの狂いで列車にもぐり込んだこと・・・などなど、思い出は尽きないです。
マイカーで林道終点まで快適にアクセスできる昨今に比べれば、何と貧しかったことか、でも、皆がエネルギーに溢れていたような気もしますね。
”旅情”・・・、この日記を読みながら、停車中のホームで売り歩く笹子餅を買おうか買うまいか、ポケットの中でお金を数えた遠い日を思い出しています。
夜行列車の経験がある人の多くは、その時の場面を思い浮かべるとノスタルジックな郷愁を覚えるのでは無いでしょうか。
私より年配の方は「北帰行」、同世代では、かまやつひろしの「どうにかなるさ」などの曲に描かれた哀愁を含んだ夜行列車の旅の情景にも共感を覚えますよね。
知らない世代の人にとって見れば、年寄りの思い入れなのでしょうが、
『笑いたくば笑え、キミたちには判らない情緒があるのだよ!』です。
う〜ん、やっぱり年寄りの「昔は良かった」でしかないですね。
山に登ろうなんて思う人は大体が若くて貧乏、お金は無くとも体力はあるから夜行列車という選択が当り前。だから、エネルギーに溢れていたのかも知れません。
笹子餅、若い頃は買ったことがありませんでした。
何しろ、地元の駅に着いたときには財布の中に紙幣が残っている事は少なく、酷いときには30円というのがありましたから。
guchi999さん。久しぶりです。2月7日から4月2日までヤマレコ見ませんでした。体調悪くヤマレコみますと焦りますので。やっと、頚部痛〜腰痛と足底部痛の回復の兆しが出てきました。
新宿発PM11:55の夜行列車を自分も使いました。ホームでなく通路で並びましたよね。通路から駅員がホームに誘導しましたが、だれか一人走り出すと皆一斉に階段を走り出す。自分は高校生でしたが、「ク〇ジ〇イに負けてたまるか」そんな気持ちで必死になって座席を死守しました 。
高校生でお金ありませんでした。新島々から〇セ〇で東京まで戻りました 。懐かしいな〜〜。←すみません。もう、時効でしょう。
自分のことで申し訳ありませんが、少し体調が回復してきましたので、今年の夏には軽登山を、来年から2000m程度の登山ができればと考えています。
また、面白いお話しを聞かせてください。
fujikitaさん、体調が回復されてきたとの事で何よりです。
私も3月は腰痛で思うように山へ行けなかったのですが、先週あたりから少し良くなってきて、やっと山へ行けるようになりました。
40年くらい昔の話ですが、私も谷川岳へ行くのに財布にお金を入れるのを忘れて上野駅に行って、相棒に運賃を出してもらったのは良いけど、彼もギリギリしか持っていなかったので帰りの電車賃が無くなり、二人で〇セ〇で帰ってきた事があります。
あまり褒められる事ではないというか、完全にアウトなのですけど、若い頃に〇セ〇をやった事がある人は結構いるのではないでしょうか。
今年の夏から山に復帰されるとの事ですので、レコ楽しみにしています。
初めまして栃木県人と申します
懐かしいです。
私昭和40年生まれですが、高校3年の冬に親に大学受験と偽って厳冬の2355夜行に乗りました。
朝松本についてあてもなく歩き出して、雪の松本城につき8時30分の開門を待って登城しました。
最初から最後まで私一人で天守閣で江戸時代のお殿様の様な気分になったのを覚えています。
このころはまだ山には目覚めておらず、大学以降目覚めてはから何度となく乗りましたが、
とにかくこの時の印象が強く、思い返すたび意味のなく涙が出そうなほど強く焼き付いています。
こんなつたない話を書く場を設けていただいたことに感謝します。
コメント、ありがとうございます。
古い記事にはコメントは付けないような風潮もありますが、私は大歓迎です。
若い時の思い出とシンクロする話や景色は、いつになっても胸の奥から込み上げてくるような郷愁を感じますよね。
その時の心情などもあるかと思いますが、
そこに行くと最初に訪れた時の情景が思い起こされる場所は誰にもあって、
実は、松本は私にとってもそういう場所なのです。
山岳会の夏合宿の終わりに松本に行き、みんなで夕暮れの松本城を散策した時の情景などは、懐かしいという以上の思いがあります。
栃木県人さんとは、シーンも状況も全然違いますが、同じ松本城に”思い入れ”みたいなのがあるというのに親近感を感じます。
もっとも、いい歳こいたジジーに親近感を感じられても気色悪いだけかも知れないですが。
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