二年程前のことです。
もうアイゼンが完全にいらなくなった7月初旬です。
予定よりずいぶん早くジャンダルムに着いたので一本立てることにしました。
ジャンダルム山頂にはまだ誰もいません。
しかし奥穂からこちらに向かう登山者の姿が多く認められます。
天使の近くにザックを降ろし、とっておきの未開封の缶ピースをザックから取り出します。
蓋の爪を内側に移動させ、アルミの封印に突き立てます。
プシューという音ともにショートピースのいい香りを快晴無風の青空の下に嗅ぐことができました。
本来は徳用マッチで火をつけたいところですが、100円ライターで我慢。
思いっきり吸い込み吐き出す。
至福の時です。
山の頂で喫煙は禁止されているわけではなく、かといって許可されているわけでもありません。まー習慣から何となく許可されているようなものです。
一本目を吸い終わるころ今風の二人組山ガールが上がってきた。
彼女たちは時折吹く微風の風上に陣取りました。
二人の女性のうち一人はやけに派手な身なりをしていまして、ライトブルーの上着に黄色いパンツ、赤いスパッツをつけています。もう一人の女性はそれよりも多少地味でした。
二人ともなかなかの美人さんでしたが、何やらやけに高慢ちきな感じがしまして、上品な言葉遣いでした。
こちらは無論お構いなしに一本目を携帯灰皿に落とし、二本目の煙草に火をつけました。というか、ちょっとは気にしていたのですが、やっぱり吸い続けたわけです。
先ほどよりは風が出てきたし風下なので風の流れに沿うように煙を吐き出していました。
ライトブルーの女性の膝の上ではむく犬がくつろいでいました。私のこぶしぐらいしかないちっこい犬でして、毛並みは真っ黒、足の先だけは白っぽい、なかなかの珍種でした。銀の首輪には何やら文句らしきものが刻まれていました。
私は別に気にもせず座っていました。ただ二人の女性が腹を立てっていることは薄々勘づいていました。無論ショートピースのことです。
片方の女性が色の薄いサングラス越しにこちらをじろじろ見ています。
私はそれでも平気な顔をしておりました。
別に相手から何も言われていないからです。
ちゃんと声に出して、注意するなり頼むなりすればいいじゃないですか。だって人間には口というものがあるわけでしょう。
ところが二人とも黙ったままでした・・・そこでいきなり、・・・いいですか、まるで前置きなしに、いやいや前置きなんてまるきりなしです、頭の箍が外れでもしたみたいに・・・ライトブルーの女性が、私の目の前に歩いてきて、私の手から吸い始めたばかりのショートピースを細い指でつまみ天使の向こうにポイとやったのです。
私は茫然と眺めるばかりでした。
で、私はですよ、一言も発せずにです、もうバカっ丁寧に、そう慇懃無礼というまでに丁寧にです、なんといいますか、もう丁寧とか言っても繊細さの限りを尽くしてです、この二本の指をむく犬に近づけて、そいつの襟首をデリケートな手つきでつかまえると、天使の向こうにポイと投げ捨ててやったわけです。ショートピースと同様にね!
むく犬はキャンと一声吠えただけでしたよ。
虚空は何事もなかったように奥穂への稜線へ続きます。
私は正しかったのです。正しかった。何倍も正しかった。何しろジャンダルムの頂でショートピースの喫煙が禁止されているのだとしたら、犬を中部国立公園の穂高のジャンダルムに連れてくるなんてもってのほかじゃないですか。
という小話を山岳部仲間に話したのです。
するとそのうちの一人がそれとよく似た話をどっかで読んだ気がする。舞台は違うけれど。そうだ「白痴」だ。新訳で読んだぞ。
興味津々に読ませていただきました。実に面白いストーリーです。短編掲載しても面白い話ですね。白痴(新訳)、機会があれば読んでみます。なぜそれがジャンダルムなのでしょう。犬ポイは別にしてどこにでもありそうな話ありがとうございます。
医師から座ってもよい許可が出ましたので早速PCに向かった次第です。ドストエフスキーの「白痴」では一等のコンパーメントが舞台で女性はイギリス人という設定です。疾走する列車の窓から犬を捨てるのですが、それはあまりに酷なのでジャンダルムの天使の向こう側は直登ルートなので落とされた子犬が直登している登山者の胸元に落ち助かったという後日談を書こうと思いましたが冗長になるのでやめました。
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