秩父多摩が国立公園に指定されて間もなくの頃です。
日原と倉沢にある鍾乳洞の探検に、学友達と出かけました。
皆、通学用の短靴にボストンバッグの街歩きの身づくろいでした。
そのとき、奥多摩の山と渓谷の美しさに魂を奪われて以来、夢中で山に登りました。
その後社会人山岳会に所属し、岩壁の登攀に熱中して青春時代を過ごしました。
山の想い出は、その時に私の脳裏に克明に焼き付けられました。
よく思い出されるのは、山と仲間達の情景です。
悲喜交々、克明に記憶していて、忘れることが出来ないのです。
幸いにして最初の奥多摩鍾乳洞以来の山行の写真が、断片的にほんの僅か残っていました。
全ての山行の1パーセントにも満たない写真が手元にありました。
たまたま自分が写した写真が殆んどです。
残念ながら会所有の写真は全く手元にありません。
その少ない写真をを元にして、ヤマレコの山行記録に登録しました。
登録のときに困ったのは山行の日時の入力でした。
山での情景は鮮明に記憶しているのに、山行日時は全く覚えていないのです。
日記をつける習慣が無く、何年頃の春とか夏、程度の記憶しかありません。
合宿などの山行は、暦により日程が毎年決っていましたから推定しやすいのですが、それ以外の山行は当てずっぽうの推定で日付を入力することにしました。
私は1961年の4月末日に会を離れ、登攀から引退しました。
思えば登攀との決別、それが私の青春との離別の時でもありました。
そして今は山の喜びも悲しみも、凡て想い出の中だけにあるのです。相仲 廉(ainakaren)
*(コメント欄に山行記録からの写真数枚を貼り付けてみました。)
1953−1955年の山行
・
1956−1961年の山行
山行記録
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/userinfo-8042-data.html
なんとなく哀しくもあり、そして別の道に踏み出そうという力強い感じもしていい言葉ですね!
青春だったからこそ想い出に残るんでしょうね。
若輩者がすみません
私の場合はサッカーだったわけですが、いまだに離別せずダラダラ続けているのです
tattunさん・こんばんは。
コメント有難う御座います。
コメント欄の写真は1953年から1955年までの会所属前の個人山行です。
1956年の秋に山岳会に入会手続きをしました。
正月の富士山での冬山合宿が、会の最初の訓練でした。
写真は、好きなように自由に登った山々です。
それも忘れがたい想い出です。ainakaren
追記・1956年から1961年の会所属時を含む山行写真も追加しました。
現状記録編集中の山行写真は雲取山だけです。
他は掲載していません。ainakaren
写真数の多い記事を日記にする試みとして、この日記を書いてみました。
サーバーの記録容量が増えますが、支障を生じるでしょうか。
ご意見をお寄せ下さい。ainakaren
雲取山の写真、いいですね。健康かつ素朴な印象です。コメント欄に写真加工できるとは知りませんでした。
jinzaemonさん・こんばんは。
当時の雲取小屋(現在は建て替えられて雲取山荘となっている)の全宿泊者は8名でした。
向かって左の4人が、我々パーティーのメンバーです。
右の3名は泊まりあわせた人達で、もう一人シャッター押した人が居ました。
登山用のウエアーが無い時代で皆、山人足みたいな風体ですね。
ニコヨン物語風写真ですね。ainakaren
モノクロのとてもステキな写真ですね。
すごく雰囲気があって芸術性も高いですね♪
構図が大胆で、人物と背景の山や岩の配分がとても良いですね。
renさんの青春が、いっぱい詰まった素晴らしい写真を拝見させていただけて、とても嬉しいです♪
snow_dropさん・こんばんは。
この日記に貼り付けた写真は全部モノクロですが、山行記録(1958年奥又白登攀)には当時としては珍しい初期のカラー写真が2枚含まれています。
他の記録は1961年元旦の富士山登頂まで全てモノクロです。
カラー写真が一般的に使われるようになったのは、引退の数年後のことでした。
山行の日時が不確実ですが、記録もお読み頂ければ幸いです。ainakaren
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