![]() |
![]() |
![]() |
また「最後の断末魔を見なくて良かったね」とも言っていたが、私はベルがどんなに苦しんでいたとしても本当は側に居たかった。
後日、獣医さんと話したのだが、その獣医さんは余程の事が無い限り安楽死はさせないそうだ。
動物たちは皆、最後の最後まで必死に生きようとするそうだ。
ベルの最後の様子を話すと、「あー、それはギリギリのところですね」と仰っていたが、私としてはこの話を聞いていたとしても、安楽死はさせなかったであろう。
気高く最後まで懸命に生きようとしていたあいつも、きっとそれを望んでいたに違いない。
ベルには強烈な悲しみと涙を持って、死について考える機会を与えてもらった。以前少し触れたブライアン・ワイスは退行催眠によって、生まれ変わりについて研究を続けている世界でも第一人者だが、その過程で人間以外が現れたことは無いと言っているが、その可能性は否定しない。
ダライ・ラマ14世を法王とするチベット仏教の4大宗派の一つで、中観帰謬論証派により4大宗派の中でも最も論理的であり、又密教の性質をも強力に併せ持つゲルク派では、何も無い虚空から忽然と全く新しいものが生まれるとは考えられない、全てのものは繋がり、関係を持ちながら変化し続けているという。
死のプロセスに向うと、意識の光明は粗い意識から微細な意識、そして極微細な意識へと続いていくという。
もし物質だけで意識の存在が成り立つのであれば、現代の科学を持ってすれば大分それらしい物が造られそうなものであるが、もう30年以上も前コンピューターが出現し、とてつもないスピードで進化を遂げ、もう10年もすればアンドロイドのようなものが造られるだろうと科学者たちは予想した。しかし現代では影で研究している人こそ居るだろうが、表立ってそういった事を言う人はもう居ないそうだ。意識は最も解らないものの一つとして、まだそのベールを被ったまま全くと言っていいほどその姿を現していない。
もう亡くなって2年近くになるが、ベルはこの文章を書くことで又私に新しい力を与えてくれた。
月並みではあるが、ベルは色々な所で、色々な形を持って存在し続けているのだろう。当然私の記憶の中にも。
今ジョギングコースの一つにベル塚が在る。このところ多摩川沿いの平らな所ばかり走っていたので、久しぶりにヨーグルトを持って訪れることにしよう。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する