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私はと言えば、先月この山に登ったが、
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こんなふうに針葉樹が鬱蒼としていた砥石山に登ってみたかったものである。それにしても、かつてはそこら中がスキー適地だったらしい我が家の周りの低山は、大木がなくなったかわりに今では小さな雑木が密集してしまって、滑るのも容易ではない。
冬山の思い出 柏原敏夫
物置の片隅に埃をかぶつたまま平型の楓の古いスキーがたつている。少し狂つてもいるし、滑走面もすつかりすりへつている。とうに処分した方がよかつたのだろうが、何となく私にはそれが出来なかつた。私はその古ぼけて役目の済んでしまつたスキーに、思えばもう二十年もの昔になつてしまつた冬山の思い出を夢み続けてもらいたいのである。
中学から北大の予科へ移つたころ、このスキーと共に、一番好んで訪れたのは砥石山だつた。十勝や日高のように峻𡸴ではなく、頂上の平たい極めて平凡な、八百米を少し越える程度の山ではあるが、鬱蒼たるトド松、蝦夷松の森には栗ねずみが飛び廻り小鳥が囀っていた。幌見峠を経、盤渓奥の院裏の六〇一米を左から巻いて、砥石の左肩から延びる細い尾根に取りついてそのまま砥石の山懐に入る。すると、雪の白さと凍つた松の黒緑が構成するこの冷たい世界が、私には慈母のゆたかな胸のように思われ、救われたような気持になるのであつた。人生への深い懐疑、どす黒く渦巻く社会への憤りが、自分自身の不浄の業火と共にあるいは燃え上りあるいはくすぶり続ける私というあわれな一個の存在に、いつも変らぬ慰めと励しの声無き言葉を語つてくれたのは実にこの山であつた。粉雪がサラサラと梢に微な音をたててふる寂としてしずまりかえつた真冬の日、雪に埋もれた中の沢の谷頭にゆつくりと大きなボーゲンを描いたのは、今にして思えば私の過ぎて帰らぬ若き日のシュプールを描いたひと時であつた。日が長くなり、いつか谷頭の丈余の雪に割れ目ができ、去年の笹の黄ばんだ緑が眼を楽しませるころになると、暖かい午後の日射を首すじに嬉しく感じながら、銀鼠色にふくらむ猫柳の小枝を折つたり、めつきり明るい色になつた海の青さの上に浮ぶ増毛の白銀の山塊に想いを馳せるのであつた。然しこうした訪問も三、四年位しか続かなかつた。満州事変、日支事変そして第二次世界大戦と、荒れ狂う世界に私は自分の生きてゆく道、一家を支える道を切り開いてゆかねばならなかつた。昭和二十年の終戦まで私の山日記には長い空白の頁が続いた。私のスキーもわびしく物置の隅に身の不遇をかこち続けた。
戦火は消えたが、人の心は田舎も街もすつかり荒れすさんでいたある正月の二日、私は急に思い立つて訪れる人もない砥石へ向つた。白樺は見違えるように大きくなつていた。尾根の枝には山葡萄の実の凍つたのが下がり、兎はいつものようにY字型の足跡を印していた。然し、国破れ、ふるさとの山河はあつても、私がその雪に撓んだ枝の下で食事をとり、その枝に垂れ下つたつららに喉をうるおしたトド松やエゾ松の老樹の姿はなかつた。この日は出発が遅かつたので、中の沢の谷頭に着いたのは四時近かつた。いつもなら快適な中の沢の下りも、無残に伐り倒され雪の下に放置された松の幹や枝が滑降を妨げた。戦争中、松葉から油をとるのに濫伐したとは聞いていたが、眼のあたり見る悲惨な姿にただ茫然とするのみであつた。私の若き日の師であり母であり友であつた砥石は、その衣まで剥ぎとられていたのである。凍るような月の光をたよりに、荒れ果てた中の沢を下りながら、熱いものがこみあげてくるのをどうしようにもなかつた。その後、私は一度も冬の砥石を訪れたことはない。悲しくも打ちくだかれた若い日の夢をせめて私の胸の中にだけでも、そつとしまつておきたいのである。(筆者は本校英語教諭、山岳部顧問)
[「札幌西高新聞」第35号・昭和30年3月10日発行 より]
kennさん お久しぶりです
どんな時代に生まれたかで、人の一生の内容が変わるんですね。
この記事を読んで切なくなりました。
私は、今は楽しいだけの登山が出来る日々で、これが違った目線で見なければならない日が来てしまったら・・・。
楽しければ楽しかったほど、輝いていれば輝いていたほど、変わってしまった情景に、切なさや寂しさは倍増していくんだと思います。
お父さまはお元気ですか?
kennさんも飲みすぎてませんよね
いい文章ですね。砥石山、地味な藪山と思っていましたが、戦前まではそんなに良い森だったのですね。北海道ならそうでしょうね。古い文章はそういうことを教えてくれて、大好きです。
mantenmomoさん
そうですね、今も山にしろ街にしろどこでも、理由はどうあれ、大なり小なり変貌していっているわけですから、同じような喪失感を感じることは日々世界中で起きているのでしょうね。そこが自分にとって大切な場所、心の拠り所となるような場所であれば、なおさらのこと。
しかし、そうやって永遠に失われてしまって二度とは戻ってこないものを回想し、哀惜の念を感じることに、ある種マゾヒスティックとも言える快感が潜んでいる側面もあるのではないでしょうか。無常観というか...人間の心理は面倒ですね。
ご心配いただいてすみません。
父は三回ほど入退院を繰り返して最終的に年末28日に退院。正月前後は、家にいるのに帰ると言ったり、ちょっと大変でしたが、何とか2週間ほどでおさまり、今も比較的落ち着いた状態が続いております。
yoneyamaさん
些かセンチメンタルに過ぎるきらいが無きにしもあらずかな、などと意地悪な見方をしてしまいそうにもなりますが、胸に深く刻まれる文章ですね。
こういう文章は、今の人(というか私)にはなかなか書けないでしょうね。文章が長すぎるとか、まどろっこしいとか、もっと簡潔にとか、言われるのではないかと思って自己規制してしまう。そこを敢えて書いてみても、ひどく気取った、あるいは生硬でこなれない文章になってしまうのがオチです。
発寒川源流域や小樽内川流域も深い針葉樹林だったようで、一原有徳は「あのころの山」の中の「発寒川源流の山々(失われた針葉樹林帯)」という章でこのように書いています。
「百松沢山という名の山があるくらい、発寒川源流地帯は札幌の近くにありながら、針葉樹の多い山であった。この山のかげ小樽内川流域はなおのこと、それがいまはどうであろうか」「奥手稲・山の家から、天気がよいのに磁石を頼りにせねばならぬほどの深い針葉樹林であった」
百松沢山は、人名という説もあるようですが...
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