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何しろ今日は無料公開、平安神宮へ♫
地下鉄東山三条で下車、六勝寺跡、ワグネル博士顕彰碑〜平安神宮。
ちょこっと所用があるので東寺、観智院も散歩♫
どしゃ降りでした。
シャツ、ズボン、靴・・・。
リュックの中まで水浸し
乾かしてすむものならそれでよいのですが中に入っていた本まで(-_-;)
しかし、雨の中の散歩はおつなものでした♫
植物が生き生きしていました。
以下京都検定テキストより
六勝寺跡
(左京区岡崎)
白河天皇は、鴨川東岸の白河に法勝寺を建立し、堀河天皇に譲位後、院御所である白河殿を造営して、院政を行った。現在の岡崎の一帯には、白河北殿や白河南殿、また六勝寺など、その跡地であることを示す石碑が多くある。六勝寺は、院政期に創建された「勝」の字の付いた六つの寺院を総称して、そのように呼ばれた。
すなわち
法勝寺(白河天皇御願)、
尊勝寺(堀河天皇御願)、
最勝寺(鳥羽天皇御願)、
円勝寺(鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願)、
成勝寺(崇徳天皇御願)、
延勝寺(近衛天皇御願)
の六ヵ寺である。法勝寺には八角九重塔があった。すべて失われて何も残っていないが、地名にその名を見ることができる。法勝寺はのちに西教寺(滋賀県大津市)に合併されたために、法勝寺から伝来したとされる薬師如来坐像(重要文化財)が西教寺にある。また、西方寺(左京区東大路通二条下ル北門前町)の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)も法勝寺にあったものと伝わる。京都大学熊野寮の構内に白河北殿跡の石碑があるが、ここは保元の乱の時、崇徳上皇が入っていたために後白河天皇方によって攻められ焼失した史跡でもある。
京焼・清水焼
京都で生産される陶磁器(陶器は「土物」、磁器は「石物」と呼ばれる)を総称し
て京焼)と呼び、清水焼はその代表。江戸時代初期、野々村仁清が色絵陶器を完成させ、尾形光琳・尾形乾山が出て優雅な作品を作り、京焼の大衆化、ブランド化に尽くした。磁器は江戸時代後期、奥田頴川が中国明代の磁器を手本に古染付、赤絵に独自の境地を開き、弟子の青木木米が日本独自の気品豊かな煎茶器などを残した。明治時代初期にはドイツのワグネル博士を招き、陶磁器や七宝の紬薬などに新技術を導入した。京都は陶士に恵まれないため、滋賀県の信楽や、遠く熊本県天草などから仕入れている。焼成は、従来京式登り窯によっていたが、ガス窯、電気窯が主流となり、また一部の陶工たちが住宅の密集する地域を避け、山科区の清水焼団地や宇治市の炭山工芸村に移転、大衆品から芸術性の高い陶磁器までを生産している。手造り、多品種であるところが他産地と異なる。
平安神宮
(左京区岡崎西天王町)
祭神
桓武天皇、孝明天皇
明治二十八年(一八九五)の平安平安奠都千百年紀念祭の時に京都の始祖、桓武天皇を奉祝する神宮として創建し、京都総鎮守の社とされた。社殿は平安京の朝堂院(大内裏の正庁)を模して約八分の五の大きさに縮小し、二層の神門(重要文化財)は応天門、外拝殿(重要文化財)は大極殿を模して建立された。紀元二千六百年にあたる昭和十五年(一九四〇)に孝明天皇を合祀して社殿や回廊などが増築され、現在の姿が整えられた。本殿は同五十一年に焼失したが、同五十四年に復興された。創建時に建てられて今に残る社殿(外拝殿[大極殿].神門[応天門]・蒼龍楼・白虎楼・歩廊・龍尾壇)はいずれも重要文化財に指定されている。神苑は東・中・西・南の四苑からなり、南苑以外は七代目小川治兵衛(植治)の作。神苑を含む神域は国の名勝に指定されている。
東寺(教王護国寺)
(南区九条町)
本尊 薬師如来
東寺真言宗総本山。
山号は八幡山。正式には教王護国寺。世界遺産(文化遺産)。延暦十三年(七九四)の平安遷都ののちに羅城門の東に開創して、西の西寺(現在は廃寺)とともに平安京の二大官寺の一つとされた。弘仁十四年(八二三)に嵯峨天皇が空海(弘法大師)に下賜し、真言密教の道場となった。天長二年(八二五)には空海が講堂を築造した。翌三年には五重塔の造営に着手した。同五年、綜芸種智院(学校)を建立。承和二年(八三五)に空海が宮中で後七日御修法を修し、王城鎮護の寺として朝野の信仰を集めた。空海没後、一時荒廃したが、高雄の文覚が後白河法皇の意を得て再興に着手、源頼朝の援助などで復興、以後数々の盛衰を繰り返し現在に至る。徳治三年(一三〇八)に後宇多法皇が伝法灌頂を受け、東寺の教学の充実を図り、併せて所領を寄進、後宇多法皇の伝法会、勧学会の確立はのちにすぐれた学僧を輩出することとなった。境内の主要な建造物としては、金堂(国宝)が慶長八年(一六〇三)、豊臣秀頼の造営で、創建時の規模を踏襲した大型の仏堂である。本尊の薬師三尊像(重要文化財)を祀っている。室町時代に再建された講堂(重要文化財)には、立体曼茶羅と称される、密教の教えを視覚的に表わした 磨曼茶羅の世界が二十一体の仏像によって展開されている。五智如来像五躯(いずれも重要文化財)、五大明王像五躯、五大菩薩像五躯、梵天・帝釈天像、四天王像四躯(いずれも国宝)で構成されている。五重塔(国宝)は寛永二十一年(一六四四)の再建で徳川家光による造営。焼亡再建を繰り返し、現在は五代目にあたる。基壇礎石上から最高部の相輪頂まで総高約五十五メートルは現存する木造塔として最高の高さ。御影堂(大師堂・国宝)は康暦二年(一三八O)から明徳元年(一三九〇)の建立である。もとは弘法大師の住房とされ、弘法大師坐像(国宝)などを安置する前堂と秘仏の不動明王坐像(国宝)を安置する後堂および中門からなる。寝殿造の面影を伝える数少ない遺構として知られる。他に平安時代の宝蔵(重要文化財)や、門では蓮花門(国宝)・慶賀門・東大門・北大門(いずれも重要文化財)が鎌倉時代前期、北総門(重要文化財)が鎌倉時代後期、南大門(重要文化財)が桃山時代の遺構として知られている。また灌頂院(重要文化財)が江戸時代前期、その北門・東門(ともに重要文化財)がともに鎌倉時代前期の建築である。他に、もと平安京の羅城門楼上に安置されていたと伝える兜跋(トバツ)毘沙門天像(国宝)や、神像彫刻の最古の作例の一つとされる八幡三神像(国宝)などの寺宝がある。絵画にも特筆すべきものが多く、西院曼茶羅の異名を持つ「両界曼茶羅図(伝新言院曼茶羅)」、「基言七祖像」、「五大尊像」をはじめ、十二天が屏風の一扇ごとに描かれた「十二天屏風」(いずれも国宝)など、まさに密教美術の宝庫といえる。境内は国の史跡に指定されている。境内の毘沙門堂は都七福神まいりの札所で、食堂に祀られている十一面観音は洛陽三十三所観音霊場第二十三番札所の本尊となっている。
観智院
本尊 五大虚空蔵菩薩
東寺の子院。延文四年(一三五九)頃に呆宝が造営を始めた。東寺の教学研究の中心として十五ある子院の中でも随一で、江戸時代には真言宗の勧学院であった。慶長十年(一六〇五)に地震などで荒廃していたのを再建した。典籍や仏画、仏像などを集めた「金剛蔵聖教」(重要文化財)は質・量ともにわが国の最高峰とされる。本尊の五大虚空蔵菩薩像(重要文化財)は入唐八家の一人である恵運の請来仏で唐時代の作。「東宝記」(国宝)は呆宝と二世の賢宝が編集した東寺の寺誌である。また、客殿(国宝)には宮本武蔵筆と伝える床の間の「鷲の図」や襖絵の「竹林図」がある。
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