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https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/DYQ5KZ7MR8/
を見ていたら源為義、源義朝親子が・・・。
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「保元・平治の乱 “武士台頭”の始まり」
鎌倉時代から江戸時代まで約700年に及んだ“武士の時代”。なぜ、武士は、貴族に代わり、時代の主役に躍り出ることができたのか。そのターニングポイントになったのが、平安末期に起こった保元・平治の乱。朝廷・貴族・武士が複雑に絡み合った乱の実像とは。それぞれの乱の中心人物、源義朝・平清盛の姿を通して、武士がどのように存在意義を示し、なぜ周囲に認められるに至ったのか、その知恵を探っていく。
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先日も行った白峯神宮へ行ってみる。
(写真1)
以下京都検定テキスト
白峯神宮
(上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)
祭神 崇徳天皇、淳仁天皇
慶応四年(一八六八)に明治天皇が、讃岐(香川県)の白峰から崇徳天皇の神霊を、のちには淡路(兵庫県)から淳仁天皇の神霊を、皇室鎮護の神として当地に遷して創建された。かつてこの地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅があり、末社の地主社に蹴鞠道の神である精大明神を祀る。他の末社に伴緒社があり、源為義・為朝を祭神とする。天然記念物(オガタマノキ)
小川児童公園へ
(写真2)
びっくり、奇遇です♫
いつも平野神社朝市でお会いするおじさんにお会いしました。
めったにこんなところまで来ないのに(-_-;)
行くところいっぱい。
妙顕寺、報恩寺、本法寺、妙蓮寺へ
ヒガンバナが咲いているかなぁ。
妙顕寺
(上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町)
本尊 十界曼荼羅
山号は具足山(龍華の三具足の一)。正式には四海唱導妙顕寺という。日蓮宗大本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。京都における法華宗寺院の草分け的存在で、関西法華宗団の根本をなす。開祖日像は、宗祖日蓮の孫弟子で、六老僧の一人日朗の弟子にあたる。元亨元年(一三二一)、後醍醐天皇より寺地を賜わって創建され、続いて建武元年(一三三四)には同天呈の綸旨により勅願寺となった。この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として、洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。また、延文二年(一三五七)の後光厳天皇の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、北朝が当寺を宗内最高の地位と公認したことを意味し、以来、四海唱導妙顕寺と号した。その門流は、所在地であった四条櫛笥にちなんで、四条門流と呼ばれ、本圀寺の六条門流と並び立った。しかし、天文法華の乱をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時妙本寺を名乗ることもあった。寺地も変わること四度と伝えられ、現在の地には天正十一年(一五八三)、豊臣秀吉の命により移建された。堂宇は天明の大火での類焼以後の再建。祖師堂にあたる三菩薩堂は、日蓮・日朗・日像を祀っている。三菩薩とは、妙顕寺二世の大覚が行った雨乞いの効験によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗と日像に菩薩号が与えられたことに由来する。寺宝に、尾形光琳筆の「松竹梅図」三幅などがある。また客殿前庭は龍華飛翔の庭、書院前庭は光琳曲水の庭と名付けられている。なお、尾形光琳・乾山兄弟の墓が、塔頭泉妙院にある。
報恩寺(鳴虎)
(上京区小川通寺之内下ル射場町)
◆本尊 阿弥陀如来
山号は堯天山。鳴虎報恩寺と通称される。その由来は、豊臣秀吉が寺宝の虎の図を気に入って聚楽第に持ち帰ってしまったが、毎夜画中の虎が鳴くために眠れず、寺に返したという逸話による。その「鳴虎図」は、明代、寧波出身の画家、陶佾とういつの筆になり、十二年に一度、寅年の正月三が日に公開されるならわしである。境内の鐘楼にかかる梵鐘(重要文化財)は、平安時代末期の作で「撞かずの鐘」の伝説がある。元和九年(一六ニ三)、福岡藩主黒田長政は、徳川家光の将軍宣下の先鋒として入洛していたが、報恩寺滞在中に死去し、客殿にその死去した部屋がある。長政とその父如水の位牌が安置されている。
本法寺
(上京区小川通寺之内上ル本法寺前町)
◆本尊 十界大曼茶羅
日蓮宗の本山。山号は叡昌山。洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。永享八年(一四三六)に日親が四条高倉に建立したという。日親は同十一年に『立正治国論』を著わし、足利義教の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を頭に被らされて「なべかむり日親」と称されたが、のち許されて当寺を再興した。投獄中に本阿弥清信と知り合い、のちに当寺は本阿弥家の菩提寺となる。天明八年(一七八八)の大火で類焼して、現在の諸堂はその後の再建。庭園は国の名勝。本阿弥光悦の作と伝える三巴の庭は、三島をそれぞれ巴形にして配置。中庭には光悦遺愛の手水鉢を据える。長谷川等伯と縁が深く「仏浬繋図」(重要文化財)など、絵画や関係資料が数多く伝わる。墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓がある。
妙蓮寺
(上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町)
◆本尊十界曼奈羅
本門法華宗の大本山。山号は卯木山。洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。永仁二年(一二九四)に日像が造酒屋の中興氏(柳屋)の帰依を受けて、下京区五条西洞院に開創。寺名を妙法蓮華寺とも、屋号にちなんで柳寺ともいった。一時衰退したが、応永年間(一三九四〜一四二八)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。現在地には天正十五年(一五八七)に移転。山号の由来は「柳」の字を二つに分けたもの。奥書院と玄関に長谷川派による障壁画(重要文化財)が残る。境内には有名な妙蓮寺椿や十月頃から翌年の四月頃まで花を付ける御会式桜が咲き、墓地には画家の幸野楳嶺の墓がある。
妙蓮寺のヒガンバナを見て帰りました。
(写真3)
幸野楳嶺のお墓も・・・。
写真は
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/caadcd89ca7d503ac690ef6ff82f9007
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