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ちなみに昨年の京都検定1級試験の公開テーマは「茶」の問題でした。
【公開テーマ問題】「京の茶室」に関する次の記述について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。
茶室は茶の湯を行うために特別に設けた部屋または建物で、露地と呼ぶ導入のための庭園を伴っている。 村田珠光の茶の湯を継承した ( 41 ) は四畳半の質素な草庵風茶室を営んだ。 千利休はさらに手を加え、 亭主と客の距離を縮めた極小の空間を作った。 妙喜庵にある利休作とされる現存唯一の茶室待庵 (国宝) は ( 42 ) 畳であるが、藁すさを見せる荒壁仕上げや抽象画にも似た窓の配置、入隅の柱を隠し、天井まで壁で塗り込めた室床などによって小さい空間を広く見せている。
利休の孫にあたる宗旦は、床なしの一畳半 (一畳台目) の茶室を造り、それを三男の江岑宗左に譲った。 江岑はそれを改作し、平三畳台目としたのが、表千家の不審菴である。 不審菴はもともと利休屋敷に建てられた四畳半の茶室の名で、大徳寺百十七世の(43)が利休から庵号を求められて「不審花開今日春(ふしんはなひらくこんにちのはる)」という詩句からつけられたという。一方、隠居した宗旦が隠居所に一畳半の茶室を造ったのが裏千家の ( 44 ) で、四男の仙叟宗室が継承した。また、宗旦の次男 ( 45 )が興した武者小路千家の官休庵は、道具畳と客畳との間には半板が敷かれ、主客に余裕を持たせるよう新たな試みを加えた。 藪内家初代の剣仲紹智は ( 41 ) に茶を学び、利休の媒酌によって ( 46 )の妹を妻に迎えた。その(46)が剣仲に譲ったとされる茶室が燕庵である。
( 47 ) (国宝)はもともと織田有楽斎が建仁寺正伝院を再興した際に造ったもので、明治時 代の廃仏毀釈を受け、愛知県犬山市に移し建てられた。 現在、建仁寺塔頭正伝永源院には本歌を写した茶室が建てられている。
大徳寺塔頭真珠庵にある( 48 )は、金森宗和好みと伝わる。 内坪と呼ばれる建物内の露地を持つのが特徴である。 大徳寺塔頭( 49 )にある密庵(国宝)は、 小堀遠州が江月宗玩のために建てた茶室で、 南宋の密庵咸傑墨蹟 (国宝) を掛けるために設けられた書院床は「密庵床」と呼ばれ、席名ともなった。 大徳寺塔頭孤篷庵の( 50 ) も遠州の作で、「露結の手水鉢」 と寄燈籠を近景とし、 書院直入軒の庭を遠景として取り込んでいる。
茶が初めて中国から輸入されたのは平安時代初期のことだが、喫茶は一部の貴族や僧侶の間に広まるにとどまった。喫茶が本格的に普及するのは、鎌倉時代初期、僧栄西が宋から臨済禅とともに茶種と喫茶法を伝えて以来のこと。寺院を中心に喫茶が広まり、京都の栂尾や宇治など各地で茶が生産されるようになり、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、本茶とされた栂尾の茶と他の産の茶(非茶)を飲み分けて賭け物を争う茶寄合 (闘茶会)が、武家や庶民の間に流行した。
この頃から、茶礼と称する茶会の方式がしだいに定まり、室町時代末期には村田珠光によって禅の精神を取り入れた草庵の茶が創始され、安土桃山時代、これを受け継いだ千利休が茶の湯を大成した。その後、江戸時代初期にかけて、茶の湯は諸大名に好まれて全盛を極め、三千家などの茶道宗匠も大名のお抱えとなる。その家は京都にとどまって町人社会への普及を図り、 江戸時代中期には、家元を中心とする段階的な免許制度により門人の組織化を進めた。
また、江戸時代後期には、中国の文人趣味の影響を受けた煎茶が、京都の文人たちの間に流行し、煎茶の家元も生まれた。
(京都検定テキストより)
わたしの知識はこの程度・・・。
今日のお話はレベルが高過ぎた(-_-;)でもお茶をやっている人はこの程度の知識は持っているのだろうな。
(写真2レジュメの一部)
講座が終わった後近くの京博へ。
昨日は涅槃図の講演会だった。館内の涅槃図は前もって見ていたけれど講演会がおわったあと見ていなかった。
もう一度見て納得。
雨上がりで梅が綺麗でした(写真3)
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